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公区常会

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 公区規程ができて半年後、内務省は全国市町村に部落会または町内会を組織するよう指示した(昭15・9・11内務省訓令第一七号)。それによれば、市街地には町内会を、村落には部落会を全戸で組織し、住民の基礎的地域組織とするとともに、市町村の補助的下部機関とするよう命じたのである。札幌市の公区聯合公区制は、国のこの方針を先取りした先進的施策であったという市長の自賛がここから生まれてくる。
 内務省の方針に合致させるため、札幌市は公区を手直ししなければならなくなり、十五年十二月設置規程の改正をはかった。主な点は、第一に公区の目的を「大政翼賛ノ本義ニ則リ国家及地方公共ノ要務ニ対スル協力幇助ヲ励ミ且隣保相助共栄ノ精神ニ基キ相互ノ道徳的錬成ト文化並経済生活ノ向上トヲ図」るものと改めたことである。
 第二に公区に係、聯合公区に部を設け、取扱事項を明確にし、責任者を定めたこと。すなわち、庶務(企画、会議、統計調査、予算他)、教化社会(祭典、教育、精神作興、風紀、貯蓄、労務動員他)、経済(配給調達、節約他)、衛生(衛生思想、伝染病予防、体力管理、掃除、撒水他)、警防(火災予防、防犯、防諜、照明、除雪他)、銃後奉公(軍人送迎、遺家族援護他)の部(係)を設けたが、十六年七月に産業(増産奨励、集荷供出、産業報国他)、森林防火(森林防火、植樹他)の二つが追加され、さらに十九年一月には衛生を健民と改め、業務に結婚奨励、出産増加等を補い、貯蓄納税(貯蓄、国債消化、租税公課他)、婦人(婦人班、大日本婦人会支部)を新設する変遷をたどった。これにより公区が取組む仕事がより明らかになったのである。
 第三は今回の改正の重点である。それは内務省訓令で隣保班(隣組)、町内会(公区)、市にそれぞれ常会設置を義務付け、隣保班常会と公区常会は全戸集会とする条件が付された。当初の規程では、公区に総会と常会を置いたが、今改正で常会に一本化し、第一五条を「公区常会公区員全員ヲ以テ之ヲ組織ス。公区常会ハ毎月一回以上之ヲ開催スベシ。公区ノ重要事項ヲ決議シ又ハ選挙ヲ行フハ公区常会ニ於テス。此ノ場合ハ世帯主法人代表者若ハ其ノ代理人ニ限リ参加スルコトヲ得ルモノトス」とした。
 公区運営の基礎はこの公区常会にあるとして、三沢市長はことあるごとに常会の適切な運営を呼びかけたが、多くの困難な問題をかかえていた。近世社会の惣村寄合的な集会を月一度以上も開催していくことは容易なことではない。しかも上意下達で国策を押し付けられ、承服させられるための集会となれば、納得しない人たちも多かったであろう。三沢市長が公区役員に行った十八年十一月の訓示からそれをうかがうことにしよう。長文であるが、公区制の基礎的活動の実態を知るためにあえて引用した。
 公区運営の中核骨髄となるものは公区常会であります。此の常会をなるべく頻繁に開いて、之を適切に運用することによって、公区の結束も統制も親和も協力も総べてうまく行くのであります。それ故本市の公区設置規程に於ても、毎月一回以上開くべきことにして在るのであります。然るに多数公区の中には、此の常会を中々開き渋って居る所があります。例へば、常会は隣保班に任せてしまって、半年に一度も開かない所もあります。或は班長会議を全員常会に代用して、すべて之で片付けて居る所もあるやうです。或は一年に一度予算を議する時に開けばいゝと考へて居るかの如く見える向もあります。甚だしいのになると、欠員になった公区長や副公区長の補欠推薦をしなければならぬのに、何ケ月も之を放任して常会を開かないやうな事さへもあるのであります。何故に斯くの如く常会を開くことを渋るかと申せば、忙しいといふ如きは全くの口実であって、其の本当の理由は、結局二つである。即ち一つは開いても何も議すべき問題がないからといふのと、もう一つは開くと色々質問が出たり小言や理屈をならべられるとうるさいから困るからと云ふ事であります。此の二つは共に、常会の性質及び常会の重要性を十分に認識しない事に起因するものでありまして、之がため或は当局者の誠実を疑はれる事にもなるのみならず、結局公区民が十分に公区共栄の恩恵に浴することの出来ない結果とも相成るので、誠に遺憾に堪えない所であります。
 抑々常会の目的とする所は、第一は予算其の他重要なる共同の案件の協議をしたり、或は役員の選挙をしたりする事にありますが、そればかりではない。それは極めてたまにする事でありまして、その以外に重要な意義があるのであります。即ち第二の目的として、区内互に識り合ふ機会を作ると云ふ事が重要であります。屢々顔を合せ挨拶をかはし意見を腹蔵無く述べ合ふ事によって、そこに相互の理解と親しみと人情味が湧いて来るのであって、同じ隣近所共同の利害に関する事を処置するのでも、顔も知らない者同志では、事が形式的事務的で冷かでありまして、温か味うるほひが乗らないから、どことなくぎこちなくて角がついて円滑に行かないで、納得すべきものも納得が出来ず、徹底すべきものも不徹底に終るといふ結果になるのであります。それ故につとめて常会を屢々開いて、顔合せの機会を作ることが極めて大切であります。
 常会の第三の重要目的は、上意下情の交流機関と云ふことであります。平時でもそうであるが、殊に今日非常なる大戦争の必勝完遂のためには、国民悉くが心を一つにし政府の意志に帰一して、国策の遂行に協力して行かなければならない。即ち世界の大勢国家の大局を基として立てた政府の方針要望を、十分に国民に徹底せしめ、単に国民をして知らしめるだけでなく、奮起・協力・実践の熱情をもたせる事が本当の上意下達で、何と云っても今日之は最も必要大切な事でありまして、之に当るものは常会を措ては外には無いのであります。それ故大政翼賛会からは毎月徹底事項を示されて居るのでありますが、若しこれを単なる書面通知や回覧板だけに止めておいたならば、果して徹底するでありませうか。果して国民の熱情が沸き騰るでありませうか。政府が要望しても、国民の総協力を期待しても、国民が知らずに横を向いて居たら、又ぐず/゛\して速やかについて来なかったら、政府の方針、国家の方策は之を達成する由はないのであります。誠に寒心に堪えない事であります。上意下達の重要性は上述の通りでありますが、之と同時に下情上通といふ事がよく行はれなければなりません。下情上通とは、国民の考へて居る事、望んで居る事、国民の実際生活の状況を政府当局者に通じ知らせて、政府が施策方針を立てる一つの基礎を与へる事であります。それは一億国民が個々に自己の立場から勝手な一億の意見や希望を述べても、それは下情とは云へない。政府に通じやうもないし、又通じても政府は之を参考にも資料にも供しやうがないのであります。下情といふには、どうしても国民各個の様々複雑な感情や意見が、洗練せられ淘汰せられて帰一純化せられなければ価値をもたないのであります。その洗練淘汰帰一純化の作用を為して、本当の民意輿論を創造する坩堝には何がなるかといへば、常会より外にはないのであります。即ち常会は一方には上意を国民に徹底せしめ奮起実践を促し、他方には価値ある真の民論を導き創造して政府に反映せしめるといふ、上意と下情との交流の重要なる作用を為す機関でありますから、之を軽視し等閑視して、その開会を渋るが如き事があってはならないのであります。
 常会の第四の重要目的は、国民が相互に反省共学共励する所の機関であると云ふ点であります。国民各自が国家に対し又世間隣保に対する自分の義務・立場・関係・自分の態度・自分の現在の在り方等を互に反省して、誤れるを直し足らざるを補ふことが必要であり、又互に教へ合ひ学び合ひ磨き合ひ励まし合って、報国奉公への協力をます/\完全にし強力にすると共に、各自の進歩発達・福祉の増進を図ることが必要なのであります。此の機関として最も役立つものが常会であります。常会の此の反省共励の目的を面白く説いた一つの好資料があります。今より百年余り前、千葉県当時下総国に大原幽学と云ふ農村の教化振興に大なる功績を挙げた人がありましたが、その人が天保九年に書いた、「行状突合会会席議定」と云ふ簡単なものがあります。それは常会規則のことであります。常会をお互の行状を突合せ照し合せる会と名づけて居る所が面白いのでありますが、それに斯う書いてあります。
  一、酒の酔人無用の事、並に無駄口まく引かず、さし出口穴さがし道友の外他人の噂無用の事
    時に一人発言すれば一統鎮まりよく/\味ひ其の身/\の悪しきを改むるの学び専一に候
極めて簡単な文句でありまするが、常会を以て行状突合の会であると喝破し、会に臨んではよく他人の言ふ所を味わって我身の悪しきを改むるの学び、即ち反省共学の心掛が最も肝要であると教へた点は、真に適切にして肯綮に中って居るものと存ずるのであります。
 常会は以上申述べた如き諸種の重要目的を有するのでありますから、たとへ協議問題が無いとしても、或は上から示される毎月の徹底事項を説明するだけでも一つの重要性があるのでありますから、之に配給其の他の当面話題や行事などを加へるときは、意義ある常会と為し得る事は決して難事ではないと思ふのであります。話題が無い/\と云って開かずに居れば、ます/\話題につまってしまうのでありまして、つとめて開き/\すると、話題も亦次から次へと生じて来るものでありますから、どうか開会の励行をしていたゞくやうに切に希望を致します。若しも先に申述べたやうに、常会を開くと小言や理屈が出て処理に困るからといふ気持で常会開会を渋る向が仮りにありとするならば、それは誠に悲しむべき事であります。どこにも一理屈こねて見なければ済まない、法律のどこに根拠があるか、権限があるかなど言ひ出す理屈屋や、当局者に喰ってかゝるのがえらいと考へる攻撃屋や、下らぬ事を質問したり揚足取をしたりするのを得意とする意地悪屋や、批判ばかりして一向建設案の無い批評屋などが居るのでありまして、斯る少数の者に随分苦しめられることも無いではないのでありまして、之をうるさがる気持ちはよくわかるのでありますが、さりとて之を恐れて居っては、如何なる地位に居っても責務を果すことは出来ないのでありまして、そこは思ひ切って勇敢に押し出していたゞかなければならぬのであります。之がうるさい怖しいでは、常会を開かないことの正当の弁解理由にはならないのであります。且つ屁理屈とか無用の批評とか、私心利己から来る小言不平の如きものは、こちらに不正な暗い所さえなければ、又こちらが確信と誠実とを以て事に臨んで居れば、決して長続きするものではなく、次第に消滅して行くものであります。こちらは答弁は下手でも説明は不充分でも、どうしても斯くするより外に途がないと云ふ事実を提げて、私心を離れて公区のために誠心誠意を以て対する者には、人は遂に服せざるを得ないのでありますから、どうか正しい者の最後の勝利を信じ、滅私奉公する者の背後には、国家の公の力も、亦神様も掩護して居ることを信じて、勇気を出していたゞき度いと思ひます。斯くして常会が頻回に開かれるやうになり、その運営が軌道に乗って参りますれば、公区の全運営は大半の成功を収めたものと云ってよからうと思ふのであります。
(三沢寛一 公区精神)