しかしながら、札幌市の豊平川対岸となる字中島(現・豊平区中の島)は、昭和初期から住宅地として開発が進められていく。中島は大正五年では一二戸ほどであったが、大正十五年十月に江別町の高崎仁三郎、野村小親、中谷勇吉、河合才一郎らが、もと谷七太郎が経営していた札幌葡萄園(約四万坪)を買収し、昭和二年八月に宅地に造成して中の島住宅地として分譲を始めた。高級な文化住宅地をめざしたもので一戸分は三〇〇坪と広く取り、全部で一二八戸分の分譲であった。さらに中の島には豊平川を渡る橋がなく交通が不便であったので、あわせて約四万円の私費を投じて幌平橋、連絡道の建設を行い(昭和二年九月二十日に竣工)、南一六条の市電停留所との連絡をはかったのであった(樽新 昭2・8・13)。これにより中の島が住宅地として発展することになったが、それとともに当時、豊平橋より上流には橋がなかったので、幌平橋は山鼻方面と豊平、平岸方面とを結ぶ基幹橋として重要な役割をはたすことになった。翌三年十月には精進川に豊栄橋が架けられ、平岸本村と中の島との連絡道も完成した。この頃、平岸方面では果樹、蔬菜類が約四〇万円の年額といわれており(北タイ 昭2・9・29)、札幌市内への産物出荷も至便を得るようになる。
豊平町で市街を形成していたのは定山渓である。定山渓は定山渓ホテル(元湯ホテル)、鹿の湯クラブ、定山園などがある湯の町であり、浴客や行楽客での賑わいをみせていたが、冬の閑散期の対策として大正十四年十二月に朝日岳の中腹にスキー場が開設されていた。さらに、昭和四年十月二十五日から定山渓鉄道が電化となり、豊平・定山渓間が従来の一時間二〇分が四四分に短縮となり、〝札幌の奥座敷〟も近くなるのであるが、凶作や不況などで客足が減少しはじめ、九年五月には「近来不振の一途を辿る」とのことより定山渓振興会などが創設され(北タイ 昭9・5・22)、人気の回復に努められていた。定山渓市街には温泉街の他に帝室林野管理局の定山渓分担区員駐在所、郵便局、巡査部長派出所・巡査駐在所、小学校などの官公署もあり、行政の中心地でもあり十五年に二六八戸、一六〇〇人を数えていた。やがて豊羽鉱山が復活するにしたがい定山渓も賑わいを回復するようになり、十八年四月十日には豊平町定山渓出張所が設置され、平岸村字一ノ沢以西の一五〇〇戸の事務が取り扱われるようになる。
写真-6 ホテル,旅館が建ち並ぶ湯の町・定山渓市街(昭和10年頃)
大正十年に休山した豊羽鉱山も昭和十二年にいたり日本鉱業によって採掘を再開し、元山には再び鉱山町が出現するようになる。十五年の鉱山町の連担戸数は三〇一戸、一八九五人であったが、十七年の従業員数は元山、石山洗鉱所を合わせて一二二七人、戸数は五八〇戸、人口三九〇〇人とされている(豊羽鉱山三十年史)。