表-17 各町村の生産総額 (円) |
札幌 | 篠路 | 琴似 | 手稲 | 藻岩 | 豊平 | 白石 | |
大9 | 1,002,758 | 471,635 | 1,392,365 | 1,044,832 | 404,399 | 2,284,746 | 1,172,887 |
10 | 1,193,431 | 445,005 | 1,385,560 | 1,097,185 | 354,271 | 1,717,514 | 1,317,495 |
11 | 835,440 | 269,413 | 1,322,004 | 786,691 | 413,981 | 1,251,163 | 1,265,887 |
12 | 838,017 | 365,077 | 1,429,391 | 913,332 | 396,304 | 1,339,371 | 1,399,837 |
13 | 1,218,702 | 443,941 | 1,534,187 | 1,139,458 | 477,895 | 1,511,017 | 1,559,032 |
14 | 1,359,718 | 466,446 | 1,524,193 | 1,719,453 | 462,095 | 1,542,431 | 1,567,470 |
15 | 1,413,689 | 452,242 | 1,500,145 | 991,703 | 428,946 | 1,347,303 | 1,383,464 |
昭2 | 1,634,934 | 507,847 | 1,431,734 | 1,161,151 | 510,661 | 1,485,045 | 1,347,132 |
3 | 1,533,556 | 471,226 | 1,589,367 | 1,431,495 | 425,631 | 1,899,787 | 1,390,223 |
4 | 1,657,723 | 447,198 | 1,389,401 | 590,227 | 422,886 | 1,508,794 | 1,200,875 |
5 | 1,744,620 | 815,356 | 414,197 | 1,193,577 | |||
6 | 1,528,405 | 197,768 | 773,400 | 359,831 | 222,908 | 880,034 | 395,900 |
7 | 1,724,836 | 301,687 | 664,336 | 1,135,986 | 291,694 | 1,207,843 | 863,299 |
8 | 1,501,287 | 418,865 | 1,064,702 | 1,072,111 | 337,115 | 1,795,983 | 1,494,050 |
9 | 621,403 | 413,311 | 1,413,734 | 1,214,507 | 312,837 | 1,810,342 | 1,688,963 |
10 | 753,631 | 477,843 | 1,157,132 | 1,355,826 | 304,937 | 1,821,406 | 1,612,006 |
11 | 1,057,419 | 565,366 | 2,720,892 | 792,308 | 282,984 | 5,007,399 | 1,807,280 |
12 | 1,204,957 | ||||||
13 | 1,578,987 | 947,023 | 5,755,269 | 2,819,703 | 606,608 | 3,127,208 | 3,115,912 |
14 | 2,312,496 | 1,383,509 | 7,370,584 | 3,362,368 | 925,716 | 5,040,179 | 2,693,969 |
『石狩支庁管内要覧』及び各町村要覧等より作成。 |
これが昭和に入ると五年から九年にかけての大凶作の影響を受けて、大きな落ち込みをみせるようになる。特に六年の落ち込みがひどく、大正十四年と比較すると手稲村は二五パーセント、白石村は三四パーセントにしか達しておらず、篠路村、藻岩村、豊平町も五〇パーセントを切っている状況であった。特に水田地帯の農村が大きな痛手を受けていた。この状況が数年続いた結果、農家は窮乏をきわめて負債も増大し、農村は疲弊することになる。町村は税収の不足、救済土木工事の実施などにより財政赤字が深刻となり、社会的にも暗い影を落とすようになる。こうした状況も十年あたりからほぼ回復し、逆に十三年からは戦時体制下における食糧の高騰の影響を受けて好況に転じ、農産も空前の高い生産額を示していくようになり、生産の拡大などにより鉱工産も大幅に増大していく。
図4から町村別の産額の内訳を大正十四年と昭和十四年を比較しながらうかがってみよう。大正十四年は各町村とも農産が主要であったが、札幌、琴似、白石村などは工産の割合も高かった。手稲村は鉱産が四九パーセントを占めていた。畜産が一〇パーセントを超えて割合と多かったのは札幌、手稲、藻岩、白石の各村、豊平町であり、また豊平町に林産が多いのは広大な御料林が存在していたからである。
図-4 各町村の産額内訳対照図
これが昭和十四年になると鉱工産が飛躍的に伸びるようになり、琴似、手稲村は七三パーセントというように、藻岩村、豊平町の伸びも著しい。琴似、藻岩村は工場の進出により工産が増大し、手稲村、豊平町は手稲鉱山、豊羽鉱山の発展による鉱産の増大に起因している。その分、相対的に農産の割合が減少をみており、純農村を保っていたのは市街地を分離して札幌市に編入した札幌と篠路の二村のみであった。この十五年余りの間に諸町村の生産構成は大きく変化し、特に工産が増大している諸村は札幌圏へと包摂されていったことを示しているのである。