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警防団の編成

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 昭和十二年七月の盧溝橋事件、そして日中全面戦争突入後、日本は中国主要都市(南京・広東・武漢・重慶)の戦略爆撃を実践していた。それゆえに、国内の防空体制の確立を早期になし遂げる必要があった。
 札幌市の場合、空襲に備えた防護団の結成は意外と早く、昭和十年七月四日である。橋本市長をはじめ八人からなる防護団役員をもち、全市を一三分団(一~一一分団、苗穂鉄工場、帝国製麻)に分かち、防毒班・防火班の編成で、延べ人員六〇〇〇人が見込まれた(北タイ 昭10・7・4)。
 十二年四月、防空法が公布され、日中戦争勃発以降は日本の主要諸都市で防空演習が実施された。札幌でも十二年十一月二十六日~二十八日にかけて札幌地方合同防空演習を実施、二〇万市民と隣接する琴似、藻岩、白石、豊平各町村民が参加した。演習は、札幌が空襲を受けたとの想定で空襲警報が鳴り、負傷者運搬、食糧の炊き出し、灯火管制等が行われた(北タイ 昭12・11・27~28)。十三年に入ると、道庁が防空思想の普及のため児童から防空ポスターの作品を募集、また内務省・道庁主催の防空展覧会を開催するなど「防空」がさかんに口にされ、札幌市では「防毒面姿」の防空宣伝デモ行進さえ行われた(北タイ 昭13・7・24)。
 十四年一月二十四日、警防団令が公布され、四月一日から施行された。これは従来の消防組と、防空業務のために結成された防護団を統合して、民間による防空組織の要とするものであった。これにより、従来の消防組規則は廃止、公立札幌消防組札幌市防護団とともに三月末をもって札幌警防団に改組統合された。
 改組統合なった札幌警防団は、一五の祭典区を単位とし、全市を九分団に編成した。本部を消防本部と防護本部とに二分し、本部は当分警察署内に置いた。警防団長のもとに副団長二人を置き、消防、防護の事務を分掌、消防本部には消防部長のもとに七分遣所を置き、防護本部には庶務、警護、救護、配給、工作の五部長を置いた。各分団には正副団長、庶務、消防、治安、救護部長を置いた。九分団は以下のとおりであった。〔第一分団〕豊平・白石方面―祭典区八、一五、〔第二分団〕苗穂方面―同一三、〔第三分団〕鉄北方面―同一一、一二、〔第四分団〕桑園方面―同一六、〔第五分団〕大通~南七条に至る西五丁目線以西方面―同一七、一、二、六、〔第六分団〕南八条~南一四条に至る西五丁目線以西方面―同一四、六、〔第七分団〕山鼻方面―同一四、〔第八分団〕本府・豊水・東方面―同一~五、七、〔第九分団〕中央・東北方面―同九、一〇(北タイ 昭14・3・17)。
 十四年結成当初、消防本部員一五一人、防護本部員四九人、第一~九分団各二〇〇人ずつの総計二〇〇〇人(団長一、副団長二、分団長九、副分団長九、部長一、班長二〇九、警防員一七二九)であった。十六年四月一日円山町が市に合併となり二分団を追加、第一〇(鉄北西部方面)、一一(円山町)分団が設置され、団員数二一五一人と増加した。同時に警防本部の警護部を警報灯管部と警護交通部とに二分し、合わせて六部制とした(札幌市事務報告)。警防団の活動の軸は、防護団と同様に防空訓練にあった。十四年八月に実施された防空演習は、道庁防空課指導のもと、札幌市では二十四日から三日間にわたって行われた。模擬焼夷弾、ガス弾を用い、警防団家庭防火群、特別防護団が、ガスマスク、モンペ姿に身を固め、バケツリレーで消火に努め、「見事に制圧」した、といった訓練であった(北タイ 昭14・8・25夕)。
 十六年十二月八日の太平洋戦争勃発以降、警防団の防空体制はいっそう強化されることとなり、防空訓練も防空講習会と合わせて煩雑となった。警防団の改組もしばしば行われたが(十七年一三分団、十九年一六分団に編成)、十九年三月二十日特設消防署規程の一部が改正となり、官設消防署が設置された。この際、警防団消防本部は団員・施設のすべてを道庁に移管、このため常備消防隊は警防団から姿を消した(札幌市史 政治行政篇)。
 太平洋戦争勃発以降、警防団員のなかにも軍事応召および徴用者が出はじめ、戦争が激しくなるにしたがって増加してゆく。二十年の場合でみると、警防団員現在数は一五四九人と著しい減少を示し、逆に「応召ニヨル未復員数」が五一七人にものぼった(札幌市事務報告)。
 札幌市の警防団が祭典区を基準に編成されたということは、警防団結成の翌十五年編成の公区地域もそれにならっていることからも、祭典区が民間防空の観点からだけでなく、戦時体制全般の強化に活用された面があるといえる。
 十四年の警防団の設置は、札幌市に隣接する町村においても同様であった。十八年二月九日付道庁告示によれば、豊平町豊平豊羽鉱山警防団が本部と二分団をもって設置されている(北海道庁公報)。また、十九年十一月二十一日付道庁告示によれば、琴似町琴似警防団が本部と三分団に改組された(同前)。
 一方、警防団設置後官民一致して防空に協力・連絡をはかるため、大日本防空協会道支部が十四年九月十二日発会した(北タイ 昭14・9・13)。また、篠路村の場合のように警防団後援会さえ設置した町村もあった。同後援会規約によれば警防団後援会には分団・班区域居住世帯主全員の加入が義務付けられていた(篠路警防団後援会規約)。このように、警防団を支える組織もまた地域に求められていた。