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社会運動の中へ

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 第二節で述べたように、第一次大戦後の札幌は工場が増加し、男女ともに工場労働者が増した。それとともに、大正十五年二月、日本労働組合評議会北海道地方評議会が発会し、婦人部も設けられたことから(北海道ニ於ケル左翼労働沿革史)、働く女性たちが労働者としての自覚的運動へと入っていった。女性労働者たちの労働争議への参加も早くからみられる。たとえば、大正十五年九月、市内豊平町北海道製綱会社の男女職工二四〇人は、日給三割増額、労働時間の短縮を要求してストライキに入った(北タイ 大15・9・18夕~22)。また、昭和二年三月十五日、駒野製綿の男女職工一〇〇人余も待遇改善の四カ条(賃上げ、公休日、有給休暇等)を要求した(北タイ 昭2・3・19)。しかし、駒野製綿の場合不成立に終わったが、同時期開催中の労農党札幌支部演説会では、同工場女工が男女聴衆五〇〇人余に「駒野争議真相発表」と題して演説し、支持を訴える場面もみられた(北タイ 昭2・3・27夕)。
 これらの争議に共通している点は、当時男工一八時間、女工一五時間の長時間労働の上に低賃金であったということである。職工たちの要求は一〇時間労働であった。
 昭和三年一月、女性が多く働いていた札幌のゴム工場七社が休業に入り、北都ゴム工場では四七人が解雇された。この時、札幌婦人同盟準備会では解雇された主婦たちとはじめて懇談の機会を得た(無産者新聞、山内みな自伝)。同年二月、労農党札幌支部主催の札幌労働者大会では、印刷会社、市電、鉄鋼場、鉄道、帝国製麻等従業員約三〇〇人が集まり、八時間労働の実施、賃上げ要求、青少年婦人労働者保護法の制定等を決定した(北タイ 昭3・2・13、無産者新聞)。それを受けて、同年三月帝国製麻の男女職工は、八時間労働の即時実施を要求した(北海道社会運動史)。
 四年一月二十日、全国婦人同盟・無産婦人聯盟合同大会を開催、ここで無産婦人同盟を結成した。これにより無産者婦人の地位向上と戦線統一をめざすことになる(集成10)。
 大正十四年五月施行の治安維持法は、女性活動家にも多くの犠牲者を出した。昭和三年一月、九津見房子等が日本共産党のオルグとして来札、党組織を進めていたが、三月十五日全国的な日本共産党への弾圧により党員や支持者三〇人が検挙・検束された(九津見房子の暦)。札幌での最初の犠牲者である。その後も党組織の再建は行われたが、四年四月十六日の弾圧で検束され、検束者二三人中には看護婦一人も含まれていた(北タイ 昭4・11・6)。日本共産党はこれで消滅したわけではなく、その影響下の左翼労働組合日本労働組合全国協議会(全協)を組織しており、札幌には四年組織され、婦人部も設けられていた。弾圧を二回も受けたが、六年オルグとして来札した相沢良によって三たび組織された。七年十月、全協札幌地区協議会第一回拡大会議を開催、相沢良、坂場(のちの柄沢)とし子、佐藤千代の三女性は、帝国製麻、古谷製菓等市内労働者を組織するなど活動していたが、八年四月二十五日、相沢ら女性九人を含む道内三四人が弾圧により起訴された(相沢良の青春)。
 札幌におけるメーデーは昭和二年からで、主催団体は札幌合同労働組合であった。その後、左派の姿は消え、とくに七年のメーデーでは札幌駅跨線橋工事に従事していた女性労働者が参加して話題を呼んだ(北タイ 昭7・5・2、本章第二節参照)。