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動員の諸相=官製女性団体

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 「事件」勃発以来、人びとを戦時の体制につなぎ止め、参加させることを目的とした社会組織の動員が行われる。女性にかかわる組織においてそれはいっそう顕著にみられた。当時、「婦人報国」の愛国婦人会(愛婦 明34・3結成)、「家庭報国」の大日本聯合婦人会(聯婦 昭5・12結成)、「家庭国防」の大日本国防婦人会(国婦 昭7・10結成)の三女性団体が鼎立し、これらの団体を軸に日中戦争開始以降いちだんと活発化し、「大衆婦人の一大社会進出」といわれる状況を生み出したのである。それぞれ個別の組織を持っていた女性団体が、ひとたび「事件」勃発後どのような行動をとったかを例にとってみてみよう。表42は、愛婦と国婦の「事件」直後から十二月までの動きを示したものである。この表からもわかるとおり、国婦の機構が在郷軍人会(郷軍)の編成に準じたこともあって、郷軍と共催で慰問袋調整から大会まで「白エプロンにたすきがけ」で、札幌支部会員一万人の活動は実に行動的で、「大衆女性の社会進出」を思わせる。それに対し、愛婦は「非常時局」を乗り切る「申合事項」を決議するなど、組織強化に力を注いでいる。しかも、この時期特徴的なのは、国民精神総動員運動開始二日後の十二年八月二十六日、愛婦、国婦、聯婦、聯合女子青年団(女青)等女性七団体が「銃後婦人大会」を開催し、以後も女性団体の合同の大会や銃後活動が目白押しに行われていることである。銃後における女性団体の動員の開始であり、そして女性団体の統合の予兆がみられる。
表-42 盧溝橋事件直後の愛婦・国婦の活動(昭12)
年月愛国婦人会国防婦人会
7月14日 道支部霞ヶ浦海軍航空隊を札幌飛行場で歓迎,茶菓子の接待。
19日 道支部,評議員会を開催し,銃後後援の7項目を決定。
26日 道支部,大通小学校にて役員大会。石黒支部長(道庁長官万千代夫人),全道会員10万人に対し,非常時局をのり切る決意を固めるべく4つの「申合事項」。
15日 武藤能武子国婦会長(故武藤元帥夫人),国婦第7師管本部結成式に出席。
17日 中央分会,第2回総会を大通小にて開催。総会後郷軍と合同で映画会,講演会。
19日 札幌支部(会員1万人),郷軍共催で中央創成小で大会開催〔白エプロンにたすきがけの非常時姿いさましく,婦人報国の熱誠に燃えてさかんに気勢と〕。
8月16日 道支部事務所,日赤道事務所より分離。
 
 
 
 
26日 愛婦道支部・国婦道支部・道聯婦・聯合女子青年団等女性7団体,札幌グランドホテルにて「銃後後援北海道各種婦人団体総動員計画」事業を協議(銃後婦人大会)。
21日 札幌支部・旗亭いくよ共催,札幌市兵事課,北海タイムス社,郷軍,海軍人事部等後援で,市公会堂にて軍事献金並戦病没者遺族・軍人家族慰安の「舞踊の夕」を開催。いくよ「レビュー・ガール」,すでに国婦会員となり17日より活動開始。
26日 同左
9月 
 
 
18日 北海道庁・石狩支庁札幌市役所主唱の「全道各種婦人団体総動員大会」を札幌で開催。愛婦道支部・国婦第7師管札幌本部・道聯婦等13団体の主催により,札幌神社にて在外皇軍将兵武運長久祈願祭。市公会堂にて大会,「全北海道の女性起つべし」を下令(エプロン姿の国婦会員,団服姿の女子青年団員,左腕十字章の篤志看護婦人会員等5000人札幌神社から市公会堂まで行進。銃後活動の強化を期す「皇国女性」の赤誠を披瀝)。
26日 道支部主催,札幌市役所兵籍課後援で,市公会堂にて出征軍人家族並遺家族慰問舞踊会開催。売上金500円余愛婦に寄贈。
28日 道支部,戦地兵士に「防寒靴下」2万足を慰問品として送ることを決議。
5日 創成分会,海軍人事部,聯隊区司令部を訪問,金300円ずつを献金。山鼻分会でも同様訪問, 150円ずつを献金。
18日 同左
10月3日 第14回体育祭。大通広場ラジオ体操に愛婦,国婦とも参加(国婦のエプロン,愛婦の白だすき)。
4日 札幌分会,石黒支部長代表として市役所を訪問,銃後後援会に620円献金。
5日 道支部,市公会堂にて時局大会開催。支部長はじめ役員,札幌分会員約1000人出席。4項目の「申合事項」朗読,講演,映画
3日 同左
11月8日 愛婦・国婦・市聯婦・道女教員会・女学校家事裁縫科教員(以上各5人)・道庁学務部長以下社会教育課全員による全道婦人協議会を日赤支部にて開催。非常時家庭生活合理化を目標に,「家庭実施要目」5項目を決議。全道60万戸に頒布と決定。
25日 琴似村愛婦・国婦,琴似銃後後援会共催で琴似村各婦人会総会開催。軍事講演,映画
8日 同左
 
 
 
 
25日 同左
12月16日付 創成分会,鉄くず,空缶など廃物収集して売上金420円に達したので,うち100円札幌方面助成会へ,100円西創成青年学校へ,残220円を分会内出征軍人遺家族へ歳末慰問金として贈呈。
『支那事変銃後後援誌』第1編,『北タイ』より作成。

 ここで、それぞれの女性団体個別の活動をみておこう。まず、愛婦は道支部(昭和十二年全道会員一〇万人、十四年二〇万人)のもとに各市町村ごとに分会を組織し、札幌市分会では、出資額に応じて通常会員、特別会員、特別維持会員を擁し、十三年の場合、市分会員は一二二九人であった。その分会の活動概要は、①軍事後援事業、②厚生事業、③婦人報国運動の三つがあった。札幌市内におかれた道支部の活動をみると、昭和八年一月以来の隣保館(北1東7)における託児、学童預、児童文庫、診療、婦人人事相談等、また、札幌をはじめとする道内三一カ所での縫製作業(襦袢、袴下等)等が行われていた。さらに日中戦争以後とみに増加してきた軍人遺家族のために、十三年には母子ホーム二葉寮が(北タイ 昭和13・7・26、愛国婦人会四〇年史附録)、十五年には鈴蘭寮が開設され、一三歳未満の子女を持つ軍人寡婦を対象に、独立自営に必要な技芸を修得させた(愛国婦人会四〇周年写真帖)。
 これに対し国婦は、九年六月二十二日婦人国防義会の発会をみ(北海道国防義会婦人部より独立。大日本国防婦人会の例にならい、婦徳の発揚、時局の認識、傷痍軍人の慰恤をおもな目的とす)、十一年中に札幌市内各分会の発会があいつぎ、札幌聯隊区管内で四〇分会が設立され、活動していた。しかも、国婦の機構は「在郷軍人会の編成に準じて」、総本部→師管本部(第七師団)→地方本部(二五聯隊)→支部(札幌市)→分会(学校、町内会)というように組織され、分会を組織の核とし(大日本国防婦人会一〇年史)、在郷軍人会と密接な協力関係にあった。十三年十二月現在、第七師管(北海道、樺太)国婦会員は三五万人となり(十六年九月現在三七万人)、日中戦争前と較べ約三倍となった。また、うち札幌支部会員は一万一七五二人と、これも増加していた(北タイ 昭13・12・23)。このため、活動内容は献金をはじめ、傷痍兵の慰安、慰問袋の発送、献納(毛布、布団)、二五聯隊への「洗濯部隊」「ミシン部隊」「兵器の手入れ」部隊といったように、軍と一体性を保ち、白い割烹着を着た「家庭の軍人」として期待されていた。

写真-12 国防婦人会札幌地方本部慰問袋発送風景(昭15.2.28)

 以上二つの女性団体とは別に、札幌市婦人聯合会の名を持つ聯婦は、家庭婦人の町村行政単位での網羅を原則として全国的組織を持ち、上から作られた日本最初の女性団体である。五年十二月二十三日の文部省訓令「家庭教育振興ニ関スル件」にもとづいて文部省主導で発足、公民教育、生活改善、家庭教育の三つの柱をもっていた。札幌市では、翌六年三月六日市内各種女性団体一〇〇〇人を網羅して発会した(北タイ 昭6・3・7)。翌七年九月には道内支庁単位とする北海道聯合婦人会を創立した。日中戦争開始後の聯婦の活動は表42でみたとおり、愛婦、国婦等女性団体と合同のもと銃後活動に参加しているのがわかる。特徴的なのは、「家庭報国」を旨とするとおり、女子青年団の母体的役割を持つ。
 その女子青年団は、日中戦争勃発直後の七月二十五日、男女団員ともに一二〇〇人が集結、宮城遥拝、国歌斉唱、令旨奉読、神社参拝をともなった会合では、「愛国奉公の至誠を捧くる覚悟」を誓い、慰問、遺家族救護救助、共同作業、愛国醵金活動へと参加することになる(北タイ 昭12・7・26、支那事変銃後後援誌 第一編)。七月下旬以降、男女青年団が協力して飛行機献納運動を展開、九月八日には「男女青年団銃後後援実行事項」を決定した(支那事変銃後後援誌 第一編)。翌九日には聯婦とともに「女子義勇隊」を結成したり、廃品回収、慰問袋の発送にと多忙である。十三年七月、本道二〇万人の男女青年のために「青年勤労総動員計画」を打ち出した。国民精神総動員運動の一環として、同年八月には石狩聯合女子青年大会を、十一月には全道男女青年大会を開催、札幌神社参拝、分列行進がパターン化される。十五年十月から開始された銃後奉公強化運動では聯婦、女子青年団も参加、食事の前に「兵隊さん有難う」と感謝の念を新たにすること、慰問状を出すことなどであった(北タイ 昭15・9・26)。日中全面戦争以後、求められる女性像も「非常時」に呼応したものになっている。