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大衆文化の成立

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 大正十二年九月一日に起こった関東大震災は、東京の文化状況を一変させる。演劇や活動写真の浅草から、デパートの消費文化に象徴される銀座へと文化の中心は移動してゆく(都市のドラマトゥルギー)。消費文化の担い手は、サラリーマン(給与生活者)を核とするホワイトカラーの新中間層であり(農・工・商の自営業者である旧中間層と区別される)、彼らによりスポーツ・映画・買い物・レコードなどを楽しむ「アメリカ的生活様式」が形成される(昭和文化、大衆文化事典)。「今日は帝劇、明日は三越」といったキャッチフレーズ、あるいは「東京行進曲」の「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で、逃げましょか」といったフレーズは、震災後のアメリカ的な「モダン」を象徴する。
 昭和の幕開けとともに、大正十五年に約六〇万人の予約者を数えたといわれる改造社の『現代日本文学全集』全三七巻を皮切りに、昭和二~三年をピークとする「円本」ブームが到来する。
 『現代日本文学全集』の第二回募集に際し、昭和二年五月十八日に、改造社は宣伝として、時代の寵児、芥川龍之介・里見弴を札幌に派遣、大通小学校で、芥川は「作家と作品」、里見は「芸術製作工場案内」という演題で、「講演と映画の会」をおこなっている。会券の五〇〇〇枚は発表と同時に完売したという。改造社は、「特権階級の専有であった我が芸術を百万大衆に解放する」と意気込むのである(北タイ 昭2・5・17~19夕)。
 昭和三年の佐藤千夜子の「波浮の港」、翌年の「東京行進曲」によって歌謡曲の時代が到来する。「東京行進曲」は映画と歌謡曲という「複数メディアの相乗効果」によって、二五万枚という爆発的ヒットとなる(昭和文化)。映画は昭和六年「マダムと女房」以降、トーキーの時代を迎える。こうした新しい文化が、レコード・出版のような複製文化、ラジオ(札幌では昭和三年に開局)や大正期以降発行部数を伸ばす新聞といったマスコミによって、同時代の社会現象として地方へと伝わってゆく。このモダニズムの背景には、都市化・大衆社会化・情報化などの要素があったといえる(日本歴史大系)。
 たとえばレコードでいえば、昭和十一年四月二十日に世界的な巨匠ウィルヘルム・ケンプが、札幌宝瑩座でピアノの独奏会を開いたとき、バッハのカンタータ前奏曲、べートーベンのピアノ奏鳴曲「熱情」(へ短調、作品五七)をはじめ、当日の演奏曲のほとんどが、ケンプの演奏でポリドールレコードからすでに発売されていた。しかも音楽会のパンフレットには「ケンプ氏吹込レコード」として、一六種類のポリドールレコードの広告が掲載され、購買を促す(九島勝太郎旧蔵資料)。