昭和に入ると札幌一中で教えたこともある石森和男が大正五年に亡くなり、没後一五年を記念して息子の石森延男が遺稿歌集『谷廼葦切(たにのよしきり)』を昭和五年五月に刊行した。同年七月、札幌短歌会から白井重朗編『札幌短歌会記念歌集』が出版された。発行人の五十嵐久一は重朗と同期の北大予科生であった。出題主要会員に谷口波人、宍戸孝造、近藤紫村、杉岡孝之、斎藤白雨、山下秀之助、代田茂樹、長野英樹、山縣汎などの名がある。所属結社として覇王樹、北大文芸部、地上、潮音、霧華、林鐘、創作、ぬはり、無限、草火、八重樫、勁草、アララギ、あしかび、残光夢、雫、スバル、寒帯、新短歌時代などの名が挙げられており、この時期の札幌短歌会の様子がうかがえる。
山下秀之助の『冬日』は昭和六年十一月、東京の橄欖社から出版された。札幌鉄道病院の院長を務めながらの作歌四〇一首を収録していたもので、序文は吉植庄亮が書いている。
遠くより別れのしるしきみがするその手は暗に白かりしかも
この街のめぐりをよろふ山山の雪身にしみて大路をゆけり
よく晴れて眼路ひろびろし牧場の地(つち)をゆすぶり来るトラクター
この街のめぐりをよろふ山山の雪身にしみて大路をゆけり
よく晴れて眼路ひろびろし牧場の地(つち)をゆすぶり来るトラクター
昭和八年四月、享年三〇歳で逝った小松秀子の遺作品を、白井俠児が編集して『しほなり』を札幌の薫黛社から刊行。小田観螢、岡本高樹、酒井広治などが序文を書いている。小松秀子は『芽の芽』『野の花』『霧華』『新墾』『潮音』などに作品を発表していた。
空き瓶に果敢なき生命もち耐へてなほつつましき矢車の花
あきらめし生命のまへにちらつきて忘られはせぬ子等二人なり
あきらめし生命のまへにちらつきて忘られはせぬ子等二人なり