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復興と主要事業費

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 昭和二十年八月十六日、市役所に初登庁した上原六郎市長(前東京都商工経済会常務理事)は、市民生活の深刻な困難を目の当たりにして、東京都政三〇年の体験を生かして市政の運営にあたりたいとの抱負を述べた(道新 昭20・8・17)。まもなく全国的に臨時軍事費の支払いに端を発する爆発的なインフレが始まり、戦地や旧植民地からの引揚げが加わって、住宅難と食糧不足、燃料不足が深刻化する。加えて交通事情の極度の悪化と伝染病の流行は敗戦直後の混乱に拍車をかけた。
 同年九月、GHQによる占領下で札幌にも終戦連絡地方事務局が設置され、十月には北海道に進駐した米軍第七七師団司令部が拓銀本店に入るとともに、日本側の終戦連絡事務所も同所に開設された(道新 昭20・10・6)。こうして札幌も連合国軍の占領を受けるのであるが、現地に進駐した同軍が市の行財政にどのように関与したのかは明らかではない。むしろGHQで地方制度改革を担当した民政局や財政金融政策を担当した経済科学局の方針が、日本政府による種々の財政政策の実施(税法の改正、予算編成方針の提示)という形で札幌市の行財政に反映されたとみるべきであろう。
 戦後最初の予算編成となった昭和二十一年度の歳出予算の編成方針について、同年二月の市議会で上原市長は次のように述べた。第一は、戦争遂行費の削除と戦後の市民生活の安定と時局に対処するための経費を計上したこと、第二に、資金、資材、労務事情に考慮して緊急事業以外は予算計上を見合わせたこと、第三に、人件費については、一般庁費に含まれる費目を一割削減したこと、第四に、インフレが進行する中で、物件費は所要額を計上することは困難を極めるため、一般備品、消耗品等は前年度予算の一~二割増にとどめたこと、などである(六期小史)。
 翌二十二年度の当初予算は、上原市長の代理を務めていた助役の原田與作が「骨格予算」として編成し、同年四月に戦後最初の公選市長として当選した高田富與が、この予算に「肉付け」をすることになったが、市税の賦課率も決定せず困難な状況にあったので、食糧、燃料、住宅など当面の問題について適切な解決を図ることとした。
 二十二年九月の市議会において、高田は、市政の基本は市民の教養を高めること、及び保健衛生施設の拡充を図って健康な都市にすることであるとし、インフレの昻進に対処するため、道路橋梁、公民館の建設、新学制の施行に伴う学校建設に重点を置いた改定予算を編成することを提案し、十月の本会議で可決された。具体的な事業は、新制中学校建設、公民館設営、伝染病院設営、戦災引揚者援護施設建設、道路橋梁・公園等の改修であった。
 二十二年四月には地方自治法が公布され、翌二十三年三月に警察と消防事務が、四月には保健所が市に移管されることになった。市長として初の予算編成となった二十三年度予算に臨んだ高田は、同年三月の市議会における当初予算の趣旨説明で、今後の市の行財政の中心を市民生活の安定、産業の振興、警察消防施設の充実、教育・土木・交通・保健衛生など都市施設の整備などに置くとしたうえで、財源の制約から当年度はその一部しか遂行できないとし、さしあたっては、主要道路の舗装と修繕、橋梁の架替え、側溝の改修など道路橋梁の特別整備、疎開跡地の整備、新制中学校・保育所・市営住宅・衛生試験所の建設、公民館の整備工事、共同ゴミ捨て場設置助成、共同便所・水道等の増設などの新規事業を提案した。こうして二十三年度予算は、一般会計で二億三〇〇〇万円となり、前年度の六・八倍と空前の膨張を記録した(表1)。
 続く二十四年度の予算編成方針について、高田市長は、二十四年三月の第二回定例会で、政府の「経済安定九原則」に沿いつつ、(一)緊縮方針の厳守と事務の簡素化、(二)職員給与は六三〇七円ベースで計上、(三)警察消防費は二十三年度の政府の財政措置に加えて、賃金ベースの改定と物価上昇を勘案して計上、(四)新学制の実施、を基本方針として挙げた。
 また当年度の主要事業費としては、市役所出張所三カ所新設費、警察吏員宿舎の建設費、消防車購入費、道路・橋梁・河川の新設・改良・修繕費、月寒街道疎開跡地整備費、小学校改修改築費、中学校の修繕増築、保育所・母子寮建設費、市営住宅建設費、美香保・藻南公園等設営造営費、中島野球場建設費、北海道産業振興協会設立出資費を計上した(『市政私記』)。