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買い出しとヤミ市

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 札幌市では食糧欠配が続き、市民は衣類や金を準備して頻繁に買い出しに出かけた。買い出しは戦時中から行われていたが、敗戦後はますます盛んになった。昭和二十年十一月頃は、道内で一日五万~七万の人が買い出しに出かけたと言われていた(昭20通常道会議事速記録)。しかし、こうした個人の買い出しよりも官庁のトラックでの大口買い出しの方が食糧問題を深刻化させた。復員者のなかには、特権を振り回す官庁トラックを襲撃しようとする者さえ現れた。復員者に限らず、買い出し集団が暴動化する危険性さえあった。
 ある市民は二十年の暮、「日曜ごとの買い出しで買えるのは、五円のかぼちゃ、千数百円のヤミ米は、百円の月給では、とても買えぬ」と新聞の投書欄に書いている(道新 昭20・12・27)。駅で個人のヤミ買いを取締まる経済警察は、恨みの的となった。札幌と帯広を往復していたある道会議員は、「汽車ノ中ハ全テ生澱粉ノ山デアル、而モ入口ヲ閉サレテ居ルノデ窓カラ出入リシテ女ノ人ガ通路ニ生澱粉ヲ積重ネテ其ノ上ニ立ツテ居ル、窓ヲ明ケナイト窓ヲ破ツテソコカラ出入スル」(昭20通常道会議事速記録)と、十一月頃の旅客列車の状況を道会で述べた。自分の腹や背中に米等を詰め込み、妊婦や赤ん坊を装って食糧を運びこもうと、涙ぐましい努力を続ける女性の姿も見られた。食糧難は食べ盛りの青少年を直撃し、大学生、師範学校生、中学生も学校を休んで買い出しに出かけた。北海道第一師範学校では、食糧難のため二十二年三月一日より二カ月間の休校を決定したほどであった。二十一年十一月には、警察官二人が、薄野のおでん屋のヤミ米二〇俵の買い出しを手伝ったことが発覚し、処分を受ける事件が発生した。
 青空市場は二十年秋、狸小路の一丁目と創成川東岸に出来て、ヤミ市とよばれる盛り場となった。砂糖・酒・革靴・缶詰をはじめリンゴの皮(果実酒の材料)・魚のアラ(肥料)に及ぶ多彩なものが売られていた。ただ不思議なことに、一目で軍の隠匿物資と見分けられるものは並んでいなかった。実は、軍隠匿物資も売られていたが、復員軍人をはじめとする市民の反感を恐れ、民間品らしく見せかけていた。売り手は、以前からテキヤ(香具師(やし))と呼ばれた大道商人や、戦勝国である朝鮮人や中国人、樺太引揚者の人々であった(私たちの証言 北海道終戦史)。
 表15は、二十年十二月の販売品とその価格を記録したものである。これによれば、食料品はどちらかというと朝鮮人が売り、日本人は雑貨類を販売していた。値段は通常の五倍から一〇倍であった。ヤミ市には何でもあったが、多くの人には買えるような値段ではなかった。この頃の銭湯入浴代(公定価格が通用した少数の例)は大人四〇銭で、それまではリンゴ一個と入浴代が同額であったから、ヤミ市の価格がいかに高かったかがわかる。十一月三十日、道会議員高瀬恰は、「札幌市の主要食糧品の価格と言うものは公定価格の一五倍或は二〇倍をしております」と道会で発言した(昭20通常道会速記録)。
表-15 札幌ヤミ市販売品(昭和20年12月)
品目単位値段(円)朝鮮人販売日本人販売
リンゴ1コ2~ 3
澱粉飴10×
1枚10~15×
握飯1コ5×
乾パン10枚15×
代用チョコ1コ5×
1本55~100×
1羽75~80×
数の子1升10×
唐黍アンパン1コ2円50×
アルミ製杓1本10×
煙草朝日10本15×
赤飯1折15×
軍足1足25×
防寒手袋1足45×
タオル1本30×
代用石鹸1コ8×
煙筒1本35×
1本150~200×
靴墨10~20×
五匁糸20×
スルメ1枚2円50
足1本25~30
1尺35
目刺し20尾5
1疋2円50
タンキリ飴20コ10
外食券10食分15
『道新』(昭20.12.25)より作成。○は販売,×は販売なし

 表15のように二十年十二月には、本州からの移入品(例えば、煙草や箒(ほうき)など)がヤミ市で売られていることがわかる。これらはすべて敗戦後に生産されたものであった。ヤミ市の価格は、インフレを先取りして、またたく間に値上がりした。警察は、二十年十一月以来、何度も取締まりを行ったが、捕まるのは素人で特に農家の人が目立ち、ヤミ屋とよばれる集団化した人々は、少なかった。
 二十一年になると、露店商の組織が活動を開始した。朝鮮人のヤミ屋と抗争を起こすようになり、朝鮮人援護局は自衛組織を作り露店商のなかの暴力団から「同胞」ヤミ屋を防衛した。その後、本国への帰国などに伴って朝鮮人の売り手は減少し、日本人の香具師が多くなった。ヤミ価格は、二十二年八月頃から横ばい状態となり、ヤミ屋を廃業する者が増加してくる。十二月の市内ヤミ価格は、公定価格との差が縮少している(表16)。ヤミ市の役割は次第に低下し、狸小路一丁目のヤミ市については、二十三年四月五日をもって姿を消した(道新 昭23・4・6)。
表-16 市内ヤミ市価格 (昭和22年12月)
品目価格(円)指数
白米1升200400
もち米1升220400
小麦粉1貫300300
そば粉1貫250263
澱粉1貫300375
小豆1升100285
馬鈴薯1貫40333
大根1貫40400
キャベツ1貫45300
人参1貫45240
ごぼう1貫160355
タマネギ1貫90225
ミカン1貫200
リンゴ1貫20090
醤油1升180211
味噌1貫250250
1升80200
砂糖100匁280186
食用油1升600
清酒1升800160
ビール1本100142
バター1ポンド380380
牛肉100匁100244
豚肉100匁130288
塩鮭100匁70116
するめ1把120261
きんし1箱45350
ピース1箱90257
『道新』(昭22.12.28)より作成。
指数については,昭和22年1月を100とした場合である。

 ヤミ市の周辺には「愚連隊」、「不良少年」らがたむろし(昭21暮、市内で二、三百人)「スリ」、「かつあげ」や「かっぱらい」をやるので、朝鮮人援護局の自衛組織や香具師の組織が取締まりにあたった。ヤミ市は、はじめ朝鮮人が主導権をにぎっていたが、二十二年九月の津別事件(道東で発生した朝鮮人とテキヤの抗争)以後、札幌でも日本人香具師が主導権をにぎった。しかし、ヤミ市が衰退するとともに、解散する組織が目立ってきた。これは、景気のよい炭鉱地帯で稼ぐ香具師が多くなり、都市から移動したことも関係している。ヤミ市に通ずる道路には、靴修理人と称する青年がたむろし、通行人から、法外な一カ月の賃金に相当する修理代を巻き上げるものもいた(道新 昭24・6・24)。
 ヤミ市だけが不法な価格をつけたのではなく、堂々たる店舗をかまえている商店でも、暴利としか思えない価格をつける店があった。
 二十一年三月の場合、市内の二つの店の同一商品の価格を比較すると次のような違いがあった。
十字街の文具店   桑園の薬局

剃刀一組 二〇円  一〇円五〇銭
便箋一冊  二円     九九銭
封筒百枚  四円   一円九〇銭
(道新 昭21・4・2)