医療衛生関係機関の接収と駐屯状況をみると次のようであった。北大低温科学研究所に衛生大隊とマラリア予防隊が駐屯し、二十一年には、復員者が持ち込むと予想された熱帯病・マラリアの市内調査を行い、引揚者と復員者計二一〇〇人のうち六パーセントの高率でマラリア原虫保有者を確認している(昭21事務)。豊平町月寒旧北部軍司令部兵舎には第三〇七連隊が入営し、第七六野戦病院を開設し、翌二十二年後半期にはキャンプ・クロフォード内に診療所を開設した(進駐軍を迎ふる米会話)。また、進駐軍衛戍病院を設置するため二十年十月二十五日には庁立女子医専に校舎を貸与していた北星高等女学校(南5西17)を接収し、翌二十一年五月九日の退去・返還まで、市立札幌病院では進駐軍の要請に応じて衛戍病院へ看護婦六人を派遣し、最高時は一五人にもおよんだ(市立札幌病院百年史)。
中枢の病院は二十年十月三日、札幌逓信局(北1西6)を接収し、第九軍司令部とともに開設した第一六一病院で、北海道地方軍政部と関連諸機関や民間住宅に入居した将校たちのための医療機関であった。同病院と真駒内キャンプ内の診療所には、連合国軍直傭使用人として日本人医師五人、看護婦一四人(昭25現在)、その他事務員やタイピストらが雇用された。病院修理費や物資、直傭使用人賃金など一切の占領経費は、講和条約発効前日の二十七年四月二十七日まで、四月二十八日以降は、日米安全保障条約に基づく駐留費として国費により支払う仕組みであった(占領軍調達史 占領軍調達の基調)。第一六一病院が返還された二十九年十二月十一日の時点では、市内三カ所の病院で一七人が雇用されていた(道新 昭29・7・29、8・1、札幌逓信病院五十年史)。
半面、開放的でもあった米軍病院と札幌の歯科医師たちの交流は、占領初期からもみられた。第一六一病院には歯科医師会から医師や歯科技工師たちが見学に訪れ、札幌の脆弱な医療機器に比較して、近代設備と最新の技術に目を見張ったという(北海道歯科医師会誌 創刊号 プランゲ文庫)。さらに札幌の医学界でも、GHQによる医療制度や医療教育制度改革とともにアメリカ医学の進歩に接し、米国への留学生が増加するなど、明治期以来強い影響下にあったドイツ医学・医術が、以降急速にアメリカ医学へと転換していくことになった。