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急性伝染病とGHQ防疫対策

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 前記の如く、都市・札幌への人口流入は各種伝染病の爆発的発生と大流行を出現させたが、その原因と防疫対策についても、占領期の札幌に次のようないくつかの特徴がみられた。
 急性伝染病患者と死者は、戦時下の十八年~敗戦後の二十一年にかけ集中的に発生し、二十二年以降終息した(表32)。二十年に腸チフス・パラチフスの消化器系が、翌二十一年には発疹チフスと痘そうがそれぞれ爆発的に大流行した。高熱・下痢を発する腸チフスの患者二〇五二人(死亡四一人)は、北海道の患者四四九四人の約半数を占め、パラチフス一一六七人(死亡七人)は全道の七割を占めた。罹患率では腸チフスが全国の一二倍、パラチフスが同じく四・五倍(表33)の異常な高さであった。
表-32 札幌市法定伝染病患者・死者数の推移

種別


赤痢腸チフスパラチフスジフテリア猩紅熱発疹チフス痘そう流行性脳脊髄膜炎日本脳炎急性灰白髄炎
患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者患者死者
昭171085122012382236150000630071143
 18201581241138334247424300120085656
 199144028326646728231449700103001,53277
 20702,052411,1677542369232552068025003,985123
 218972661528274052412124174215223196001,751126
 223939587451922092242512970053048
 2366450339585101270000052112337528
 245072543002869700000200054128618
 25205112812722123500000210016233419
 262391614018024342000001010049439624
 277031810060161830000081003182921
 285507607026427400000131006288213
 295591011090486454000002100621,08919
 30574530807610362000003100331,02919
 315146141209353250000010006331,01115
 3255791524059011730000910012177316
 3357181216035326210000510011390217
 34655520006731271000021008286112
 35783111103518600000200013121,0395
 361,20536030450122100003100811,3926
 3842515120160501100003100419565
 4039701000100348000004000007600
 4228820020130619000003000009253
 44990401030815000000000009220
 467500020701,357000000000001,4410
 476201020401,742000000000201,8120
昭17・18年は札幌市厚生部『衛生統計年報第3巻』(昭27),昭19~33年は『同9巻』(昭33),昭34~38年は『同14巻』(昭38),昭40~47年は『同23巻』(昭48)より作成。
1.コレラの発生はない。痘そうとは天然痘のことである。赤痢の数は保菌者を含まない。
2.急性灰白髄炎(小児マヒ)は昭和22年に届出伝染病となり,34年指定伝染病となった。23年の数に疑問はあるが出典(『市統計書』昭32)のままとした。

表-33 法定伝染病患者罹患率の札幌市・北海道・全国比較(人口10万人対)

種別

腸チフスパラチフス発疹チフス
札幌市北海道全国札幌市北海道全国札幌市北海道全国
昭19194.8105.677.8144.324.0127.621.763.55.4
 20932.1127.780.0530.145.0118.511.447.43.5
 21117.176.558.6124.126.365.5183.571.144.3
 2236.318.922.828.55.936.21.51.21.4
 2318.69.811.914.53.020.50.10.6
 248.94.57.810.62.017.80.00.1
 258.94.05.98.62.515.22.71.1
北海道は『北海道統計書』昭和32年,全国は厚生省『衛生年報』昭和31年より作成。

 二十年のパラチフスの爆発的発生原因を、北海道軍政部(民事部)公衆衛生テクニカルアドバイザー・高桑栄松(北大医学部助教授)が、汚染源は地下水ではなく、消毒の不十分な上水道であることを突き止めた。原因は進駐直後、米軍が浄水場の消毒用塩素ガスを毒ガスとみなし接収したため発生した事故だった。回覧板で煮沸した水を呑むよう広報しても、「消毒臭い水より生水がうまい」と効果はなく、「戦争に負けたときの伝染病の流行の姿だ」と、思い知らされたという(北海道の公衆衛生 創刊号)。ほかに多発したのがジフテリアで、特に小児が罹患して喉を冒され、致死率も高かった。
 二十一年は発疹チフス患者四一七人(死亡四二人)、痘そう患者が一五二人(死亡二三人)に増え、両伝染病は高い死亡率のため市民を恐怖に陥れた。罹患率はともに北海道・全国を大きく上回った(表33)。発疹チフスの道内の患者は大半が炭鉱地帯夕張市において、二十年の夏以降、戦時中強制労働させられていた朝鮮人に集団発生したもので、栄養失調に加え劣悪な衛生環境が死者多数の惨事を招いた。GHQは全国への伝播を恐れ、二十年十一月、進駐軍防疫隊を出動させ大量のDDT散布で徹底してシラミ駆除を行い(道新 昭20・12・4)、二十一年には米国からロックフェラー伝染病研究所モルガン代将を派遣しワクチン予防接種で防疫対策をとった(北海道保健所長会二十周年記念誌)。しかし、札幌市内の発疹チフスは表32のように、夕張市発生以前の十八年から、主に朝鮮人に発生・増加しつつ二十一年に爆発的に日本人を中心に発生し(昭21事務)、四年間にもわたる流行となった。二十一年の発疹チフスは全国で三万二三六六人が発病、死者三三五一人におよぶ結果となった(日本統計年鑑)。

写真-14 DDTを散布される市民

 発疹チフスを媒介するシラミと、伝染源を媒介する蠅の駆除に以降DDTが絶大な威力と効果を発揮することになった。DDT散布は空からも行われ、二十一年七月十七日から連続三日間、「C46一機カーチス号が上空三〇〇フィートの低空を機の尾端から白煙ならぬ白物の尾を引きながら旋回、頭上から一斉散布」した(道新 昭21・7・18)。さらに、札幌市は四〇人のDDT散布要員を募集し、学校・職場・地域に派遣、西創成小学校では二十一年七月、全校児童が校庭に集合し頭から衣服の中まで散布器でDDTをかけられ、真っ白になった(西創成小学校学校日誌 昭21)。散布後は、一昼夜から三〇時間にわたり洗濯や入浴を避けるよう指示を受け、女子児童の多くは頭髪の中のシラミが弱るのを待つためフロシキや手拭いで頭を包み、洗髪に苦労したという(道新 昭21・6・24)。
 猛威を振るう急性伝染病に対し、市が臨時防疫部を設置したのは二十一年八月である。衛生課・水道課・清掃課と関連部署の一元的運営を図り、地域住民組織の昆虫駆除班を一九班編成し連合公区に派遣、DDT散布による塵芥(じんかい)の昆虫駆除と清掃消毒を厳重に行った。総仕上げに「昆虫駆除並びに消毒清掃強化週間」を設け、各駆除班がドブ、ごみ箱などに対し懸命の消毒を続けた(道新 昭21・8・10、8・30、昭21事務)。札幌駅前から南一条西三・四丁目繁華街区域の各戸には衛生と街路美観を兼ねて、ごみ箱、排水溝などに散布を行った。間もなくDDTの殺菌効果が現れ、市内の発疹チフスの発生は終息に向かい始めた。翌二十二年は、市内全児童一斉にDDTの散布が行われた。当初農薬DDTは米軍が本国から輸入・配給していたが、二十二年に札幌市内で生産され始め、以降は統制を解除された。その後残留毒性が問題となり、昭和四十四年、BHCとともに製造禁止になるまで、赤痢などの防疫に使用され続けていくことになる。
 DDTとともに防疫二大対策の一つは予防ワクチン接種であった。二十一年の予防接種はコレラワクチンを引揚者復員者のほか戦災者・浮浪者(計二五三三人)に実施したほか、ジフテリア・臨時種痘や結核予防の「ツ反」検査BCG予防接種を、乳幼児層・青少年に行った(昭21事務)。市では翌二十二年の防疫費は、二十一年に比べさらに二八〇万円を増額し、六〇〇万円を充てる結果となった(道新 昭22・12・11)。
 これら予防接種のうち、「種痘法」(明42制定)以外の腸チフス・パラチフス・ジフテリア・百日咳・結核が、二十三年の「予防接種法」制定により強制接種となり、発疹チフスは臨時接種が義務づけられた。強制接種によって伝染病が押さえられた半面、痘そうの発生がゼロになっても予防接種が続行され、種痘禍脳炎を発生させるなど後には社会問題ともなった。