一方、札幌の医薬製造業界は比較的早い立ち直りをみせた。戦争末期に北海道帝大医学部研究室が企業と共同研究を行い、市内一〇社を含む製薬会社が結成した統制団体「北海道医薬品生産協会」(昭20・2結成)が、北海道庁の要請に応じて緊急の薬品を製造していた。戦後は北海道製薬(札幌)がジフテリア血清を製造して多くの幼児を救い、琴似町に工場疎開していた大手の鳥居製薬(本社東京日本橋)がワクチン、ビタミン剤、ブドウ糖などを生産するなど、昭和二十年末には道産薬品が東北方面にも出荷され始めた(北海道医薬品生産協会関係簿 昭20、道新 昭20・12・16)。しかし、配給品だけでは不足をきたして偽薬品が出回り、ペニシリンやストレプトマイシンなどの貴重品については、進駐軍横流し品をヤミ商人が公然と医療機関に売り込むこともあった(札幌市医師会史)。
本格的な戦後復興は「国民医療法」を改正し、二十三年に新たな「医療法」を制定、並行して民間病院を統制していた日本医療団の解散によって始まる。「医療法」は近代医療推進のために病院の増設を基本におき、ベッド数を一〇床から二〇床に引き上げ(一九床以下は「診療所」)、医師・看護婦のスタッフと診察・処置室、エックス線装置、薬局など諸施設を規定した。模範病院として総合病院制度(一〇〇床以上)を開設し、国庫補助による公的医療機関の開設(助産所制度も)を図ったが実際には資金不足で民間に依存する結果となった(厚生省五十年史)。
このことから表35により札幌の戦後医療機関の設置動向の推移をみてみる。二十三年には戦前(昭13)の五倍近い一八八の病院・診療所数となったが、その中の八三パーセントはベッド数が九床以下の診療所が占めていた。翌二十四~二十八年の落ち込みは、開業医中心であった民間病院の多くが、病床数二〇の新制度の病院に昇格できず元の数より減少した。悪性インフレの直撃を受け、医療経営も困難を来していたことによる。そこで病院増設対策として、病院を法人化させ経営の永続化をはかる「医療法」に改正(昭25)したことも反映し、二十八~三十二年の四年間に町村合併分も含めて、病院は一・六倍、診療所が一・四倍合計三四九施設に増え、ベッド数も倍増し、厚生省が基準とする人口一〇万人当たり大都市四〇〇床の四倍に相当する、一七一九床という大幅な回復をみせた。その後豊平町との合併が契機となった三十六年は病院・診療所計四七九、歯科診療所一九七、病床数も一万台を超えた。以降は周辺の住宅地開発に伴い四年ごとに四十七年まで、平均一・三倍ずつの飛躍的増加を続けた。
表-35 札幌市における医療施設数の推移 |
種別 年 | 医療施設数 | 歯科診療所数 | 病床数 | ||||
病院 | 診療所 | 計 | 病院 | 診療所 | 計 | ||
昭13 | 41 | ― | 41 | ― | ― | ― | ― |
22 | 30 | 117 | 147 | 95 | 3,012 | 264 | 3,276 |
23 | 32 | 156 | 188 | 122 | 3,147 | 213 | 3,360 |
24 | 18 | 149 | 167 | 91 | ― | ― | ― |
28 | 28 | 199 | 227 | 131 | 3,963 | 304 | 4,267 |
32 | 45 | 304 | 349 | 151 | 6,756 | 1,077 | 7,833 |
36 | 59 | 420 | 479 | 197 | 10,089 | 1,848 | 11,937 |
40 | 66 | 538 | 604 | 258 | 12,177 | 2,531 | 14,708 |
44 | 82 | 697 | 779 | 312 | 15,026 | 3,544 | 18,570 |
49 | 96 | 847 | 943 | 423 | 18,117 | 4,111 | 22,228 |
昭和13年は『札幌市統計一班』,22・23年は各年末数値で,『札幌市勢一覧』(昭23・24年),24年『北海道統計書』,25年以降は『札幌市統計書』(32・36・50年)より作成。 1.診療所は昭和23年まで9床以下,24年以降は19床以下。 2.病院は昭和23年まで10床以上,24年以降は20床以上。 3.昭和13年は診療所を含む。 |
医療機関が進展すると医師・歯科医師・看護婦ら医療従事者も増加する。表36、表37は、十五年から四十七年の医療従事者の推移と道内他都市(函館市・小樽市・旭川市)との比較(人口一〇万人対比)である。札幌の医師は二十六年、歯科医師は二十七年を境に伸びてきた。医師の適正数を厚生省の目標基準では人口一〇万に対し一五〇としている。札幌市は二十八年にピーク二八五・二となり、その後は人口が増加したため比率が下がり、いわば病人にとって条件が悪くなったとはいえ、目標基準の一五〇を切るまでには至っていない。旭川市は人口増に比べ医師の増加率が低く下降傾向を示し、逆に函館市は医師の増加が人口増加率より良好にあり上昇傾向、小樽市は二十年間医師数がほとんど動かず人口減少傾向にあるため次第に基準に接近しつつある。全道の医師数は、二十四年に比べ二倍強に増加した四十七年になっても目標基準の七割に満たず、地域間格差が大きくなった。
表-36 札幌市における医療従事者数の推移 |
年 | 医師 | 歯科医師 | 薬剤師 | 看護婦 | 准看護婦 | 助産婦 | 保健婦 |
昭15 | 533 | 121 | 212 | 695 | ― | 172 | ― |
22 | 755 | 130 | 279 | 589 | ― | 256 | 103 |
23 | 500 | 75 | 303 | 145 | ― | 315 | 63 |
24 | 513 | 131 | 308 | 620 | ― | 230 | 63 |
25 | 886 | 135 | 319 | 681 | ― | 199 | 68 |
26 | 1,257 | 140 | 311 | 885 | ― | 237 | 69 |
27 | 1,114 | 198 | 234 | 973 | ― | 246 | 54 |
28 | 1,250 | 125 | 207 | 1,068 | ― | 252 | 59 |
30 | 972 | 165 | 500 | 1,156 | ― | 242 | 56 |
32 | 899 | 214 | 372 | 1,897 | ― | 256 | 86 |
34 | 1,076 | 227 | 553 | 1,207 | 481 | 230 | 82 |
36 | 1,388 | 265 | 701 | 1,358 | 428 | 228 | 109 |
40 | 1,430 | 296 | 684 | 1,743 | 1,273 | 240 | 104 |
44 | 1,681 | 394 | 810 | 2,134 | 1,403 | 274 | 81 |
47 | 2,054 | 536 | 925 | 2,957 | 1,914 | 275 | 119 |
昭和15年は『札幌市統計一班』,22・23年は各年末数値で,『札幌市勢一覧』(昭23・24),24年は『北海道統計書』,25年以降は『札幌市統計書』32・36・50年より作成。 |
表-37 医師数の札幌・函館・小樽・旭川・北海道比較 |
地域等 年 | 札幌市 | 函館市 | 小樽市 | 旭川市 | 北海道 | ||||||
実数 | 対人口 10万 比率 | 実数の全道占有率% | 実数 | 対人口 10万 比率 | 実数 | 対人口 10万 比率 | 実数 | 対人口 10万 比率 | 実数 | 対人口 10万 比率 | |
昭24 | 513 | 182.1 | 20.6 | 164 | 72.3 | 155 | 88.5 | 174 | 148.9 | 2,485 | 59.4 |
25 | 886 | 282.3 | 28.3 | 195 | 85.2 | 151 | 84.7 | 177 | 143.6 | 3,132 | 72.9 |
28 | 1,250 | 285.2 | 34.4 | 213 | 89.0 | 220 | 117.7 | 212 | 148.9 | 3,631 | 79.2 |
33 | 1,000 | 213.8 | 24.4 | 240 | 131.1 | 208 | 102.2 | 207 | 125.4 | 4,092 | 82.1 |
36 | 1,388 | 228.6 | 31.9 | 281 | 133.7 | 220 | 107.3 | 262 | 120.5 | 4,357 | 85.5 |
41 | 1,507 | 184.9 | 32.1 | 312 | 125.8 | 224 | 114.6 | 286 | 109.3 | 4,700 | 90.5 |
47 | 2,054 | 190.3 | 38.8 | 358 | 151.2 | 224 | 120.9 | 308 | 102.7 | 5,300 | 101.8 |
『北海道統計書』各年より作成。 |
戦後一〇年間の札幌の医療機関の特徴は大規模病院に官公立病院が多く、古くは明治・大正期に開院した私立病院がわずかに残るなかで、戦前に比較し医師による病院・診療所の開設者が減少し(昭34二五パーセント)、勤務医師が急速に伸びてきた。とりわけ公衆衛生行政分野に女医が増えた。検査・専門診療科を有する大規模総合病院と、かたや圧倒的多数を占める、医師一人に看護婦二、三人の私立診療所(=医院)が連携しながら市民の医療と健康を支えた。三十・四十年代もこの傾向が続くが近隣町村からの利用者が多く、交通の便利な中央区に特に大規模病院が偏在していた。このため医師も札幌に集中し、三十年代は道内医師数の三〇パーセント前後を占める一方で(表37)、市内でも琴似屯田や東米里など周辺農村地帯に無医地区現象が発生し、泥炭地で水害常襲地の東米里地区は三十一年に市立診療所が開設された。
三十年代後半から郊外団地建設ラッシュに伴う開業医も増え、新興地区の豊平・琴似に進出が激しく、札幌市医師会では患者の奪い合いや共倒れを避けるため新規開業適正配置に乗り出すほどとなる。さらに一方で、三十~四十年代にかけ札幌一極集中によって他町村の医師不足は深刻となり、困窮する町村長が北大、札幌医科大学に医師獲得のため日参する歪みも生じた。三十七年度は道内医療機関全体の二一パーセントが札幌に集中し(タイムス 昭39・3・16)、一〇年後の四十七年には札幌の医師は道内の三八パーセントを占め一極集中度はさらに高まっていった(表37)。