食糧難が続くなか、各学校は近郊に出向いて野草とりに出かけたり、学校園でジャガイモを栽培するといった独自の活動を行っていた。昭和二十一年八月二十六日には、西創成国民学校で宮城県の児童から送られた同情米についての感謝式が行われている。一人当たり〇・四七勺という僅かな量で現物支給が不可能であったので、お粥にして食べたという(学校日誌 昭20、21)。
札幌市における学校給食の開始は、二十二年二月二十日からである。「連合軍好意の学校給食用カン詰」(道新 昭22・2・21)が国民学校と庁立盲学校に配給された。一日一食あたり二〇グラムの量であった。配給されたのはさけ・ますといった魚介類の缶詰であったので、保護者会の協力で野菜類をいれた汁物にしたという。この給食実施にあたり道庁は、「一、原則として温食とする。二、一回の給食費として父兄の負担金は十銭とする。(中略)五、給食は一週につき最小限二回以上実施する」(道新 同前)という方針をとった。副食給食の動きは、二十二年末には、市の「隣接で都市と同じ食糧事情にある」琴似町や「蛋白質の摂取不十分になり勝ちな緊急開拓民」の多い豊平町などにも拡がることになった(道新 昭22・11・6)。
二十三年に入ると、輸入物資の脱脂粉乳によるミルク給食が開始された。「学校給食用に輸入缶詰の粉乳が学童一人当たり五十食分配給」(道新 昭23・1・27)されたためである。脱脂粉乳は牛乳(生乳)に比べて、蛋白質の量が多く、栄養価も高かった。しかし、牛乳を飲み慣れていない当時の児童にとっては飲みにくく、各学校ではミルクに大豆コーヒーなどを加えるといった工夫をしたという(北海道教育史 戦後編五)。昭和二十四年七月、ユニセフから児童・幼児用に脱脂粉乳が寄贈された。その対象校として北海道では町立豊平小学校が指定された。十月十七日から一年間、「毎週五回粉ミルク五十グラムに他の食糧を加えた熱量六百カロリー、蛋白質五十グラム」(道新 昭24・10・13)の給食を行うことになった。
それではその結果はどうだったのだろうか。豊平小学校では「二千六百名の全校児童のパンを焼くためのカマと調理人十名を増加し、食堂も完備、栄養士が児童たちの好みに応じて毎週献立をつくるなど完全給食の準備を整える一方で」、「パン給食が子供に与える影響はどうかと道教委と北大医学部衛生学教室が毎月一回身体検査」を行ってきた(道新 昭25・9・21)。給食開始一カ月までは脱脂粉乳に慣れぬため、約半数の児童が下痢を起こしたが、慣れるにしたがい下痢も止まった。一カ年で身長や体重や胸囲も例年の同校平均を上回り、他の小学校と比較して皮膚が目立ってツヤツヤしてきた。また昨年まで毎日一〇〇人もいた欠席児童が、一七、八人に減少してきたという。函館市立高森小学校との比較調査によれば、体位向上の差は目立ってみられなかったという別の資料もあるが(北海道教育史 戦後編五)、総じて効果があがったと考えられる。
豊平小学校でモデル的にはじまった完全給食は、札幌全市においては二十六年二月八日より行われた。道立札幌盲学校を含む二五校の小学校が対象であり、中央創成小学校の初日の給食は、アメリカ小麦にバターと砂糖入りの「パンとシチューとリンゴを合わせて六百二十四カロリーの豪華な」(道新 昭26・2・9夕)ものであった。
完全給食の資金的裏付けは、ガリオア資金(占領地域救済資金)によるものが大きかった。そのため、サンフランシスコ平和条約が締結されて日本の独立が決まり、二十六年六月にガリオア資金が打ち切られると、学校給食は継続か打ち切りかの大きな危機に直面した。全道のPTAや学校関係者は継続への運動をはじめ、九月十日には、一〇〇人の代表が集まり学校給食の危機対策緊急会議が開催された(道新 昭26・9・11)。会では、札幌に学校給食協議会を設置し、給食継続のための国への陳情・署名活動などを行うことを決定した。このような動きは全国的にみられたもので、結局、政府はその継続を閣議決定し、二十七年度以降も国庫補助が行われることになった。しかし、小麦粉の有償化による給食費の値上げなどによって、道内全体では完全給食実施校の数は減少していった。また札幌市内でも完全給食を実施している二五の小学校において、給食費未納が二十八年度の二・七パーセントから、二十九年度には四パーセントに増加した(道新 昭29・10・2)。当時の給食費は月額二三〇円であった。同時期は、札幌市児童の体位が戦前のレベルを抜き、全道平均との比較でも胸囲をのぞいた体位が上回るという時期であった。二十九年六月には学校給食法が施行交付されたが、予算の裏付けがない法律であり、問題解決はまだまだ遠い状況にあった。