戦後の札幌の音楽界をリードした筆頭は荒谷正雄だった。その最大の業績としては昭和三十六年(一九六一)に設立された札幌交響楽団(札響)の音楽上の中心となったことが挙げられるが、その下地となった活動は、戦後すぐの時期から始められていた。
荒谷は戦前、札幌商業学校から東京の帝国音楽学校に進んでバイオリンの演奏技術を修めた。十一年秋からウィーン、ベルリンなどで巨匠ヨーゼフ・シゲティらに師事し、技術を磨くと同時にヨーロッパの空気も身に着けた。第二次世界大戦がぼっ発して当初予定より帰国が遅れ、ドイツ降伏後にシベリア鉄道経由で帰国したのは、終戦まであとわずかの二十年七月初旬だった。
終戦の年に早くも札幌フィルハーモニー交響楽団を組織し、荒谷の指揮のもと、二十年十二月に第一回演奏会を開いた。メンバーには、戦時中の十七年に組織された札幌放送管弦楽団、市民が集まって戦前に活動を行っていた札幌新交響楽団(札幌新響)、北大交響楽団の奏者たちが集まっていた。曲目はシューベルト「交響曲〝未完成〟」、ヘンデル「メサイア」抜粋ほかで、オーケストラと合唱を合わせて八〇人ほどの編成だった。西創成小学校での練習には、各自がまきや石炭を持って集まった。
バリトン独唱には、シカゴの芸術学校に学んだという進駐軍の兵士が出演し、東宝劇場での一般公演に先立って、進駐軍に接収されていたマックネア劇場(松竹座)でも演奏した。合唱団の一員だった瀬川良弘は、「復員服や、軍隊の編み上げ靴、長靴などまちまちの服装で歌った」(北海道音楽史)と言う。いかにも終戦直後のエピソードに満ちた演奏会だった。
二十一年四月には東宝劇場を会場にベートーベン「交響曲第一番」ほかのプログラムで第二回演奏会を開き、札幌フィルはこの後解散した。継続的にオーケストラ活動を営むには時期尚早だったのだろう。
それからほぼ一年後、荒谷は札幌室内楽協会を旗揚げしてバイオリニストとしての力量を披露し始めた。札幌フィルや札幌放送管弦楽団のメンバーとで結成した弦楽四重奏団などにより、北星学園の講堂を会場に、二十二年四月から翌年二月まで十回の演奏会を行ったのである。ピアノのパートナーだった田中光子と組んでべートーベンのソナタを連続演奏したり、日本交響楽団(現NHK交響楽団)の団員で札幌に疎開していたコントラバスの長汐寿治を加えてシューベルトの五重奏曲「ます」を演奏したこともある。日本復興の最前線を担っていた炭鉱地帯にも演奏旅行に出向いて、喜ばれた。
そして二十三年九月、自宅の二階を教室に、札幌音楽院を創設した。荒谷と妻の恒子らが担当したバイオリンのほか、チェロ、コントラバス、ピアノ、声楽などの実技の指導があり、それに加えて作曲、美学、音楽史という学科の講義もあった。この音楽院は荒谷が、ドイツで学んできたことを伝統的な教育を通じて伝えていこうと開いたもので、その中から広瀬量平、助川敏弥(共に作曲家)らの音楽家が育った。
音楽院創立一周年の二十四年十月には札幌音楽院管弦楽団がデビューした。そうしたメンバーから札響創立時に楽員となった人たちが生まれ、中に、第二代コンサートマスターとなった佐々木一樹(バイオリン)もいた。