(1)通船の始まり
千曲川通船計画は、寛延2年(1749)水内郡権堂村瀬兵衛ら4人が、坂木陣屋に千曲川・犀川の通船を願い出たのが最初でしが、福島・川田・丹波島・矢代各宿の反対で沙汰止みとなってしまいました。
「寛政2年(1790)水内郡西大滝村の太左衛門が、西大滝から福島宿まで13里を5艘の船で通船する独占権を幕府から認められました。」また、「天保12年(1841)善光寺町の厚連ら二人が通船10艘を用いることが許され、これが千曲川最大の規模となりました。」(「小布施町史」P427)
しかし、寛政11年(1799)に善光寺御開帳参詣帰りの人たちを長沼港から乗せた太左衛門船が、豊田村笠倉から硲にかかるところで難破して94名もの溺死者を出すという痛ましい事故も起きました。
(2)幻の千曲川運河計画と信越本線
明治2年(1869)、松代藩川舟を引き継いだ川田宿又右衛門は通船会社継続願いにより引き通続き通船を行いました。この会社は明治7年に千曲川犀川通船会社となり、飯山から上田までの区間を、魚・塩・肥料などの荷物や人を輸送したという。
また、明治4年には、信越川々検査掛が「千曲川大滝開鑿意見書」をつくり、新潟湊までの船運計画が立てられました。その後も千曲川を使って長野と新潟を船運で結ぶ計画が幾度かなされましたが実現に至りませんでした。
明治21年に信越本線が直江津から長野まで開通すると、千曲川通船はその様相を一変し、新潟県からの塩や海産物、国外からの豆粕肥料などは信越本線豊野駅を中継して、船や陸路で飯山町や下流地域に入るようになりました。(※)
(3)藤村の「千曲川のスケッチ」
明治37年1月、島崎藤村は小諸から飯山へ向かう途中、豊野町蟹沢から飯山まで川舟に乗りましたが、その様子を次のようにスケッチしています。
「そのうちに乗客が集まって来た。わたしたちは雪の積もった崖に添うて乗り場の方へ降りた。屋根の低い川舟で、人々はいずれも膝を突合わせて乗った。水に響く艪の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話し声、そんなものがノンキな感じを与える。船の窓から眺めていると、雪ともみぞれともつかないのが水の上に落ちる。光線は波に銀色の反射を与えた。」