犀川を下る記[全文]

      浅井洌      1
明治三十二年八月十四日、長野に赴かんと、早朝五時三十分、長男孚と甥の誠喜とを
伴ひて、松本町北馬場なる、大岩の実家を出てたつ。おくりすとて、このかみ(注1)、おとう
と、妹むこ、次男、小川の甥姪らの人々打連れて、巾上舟に乗るべき所まで来給へり。
舟の契符を買ひて、舟に、乗るに、乗る人猶多ければ、俄(にわか)に舟を増して、後れ至りしはそ
が方に乗せ荷物なんど積いれんとさわぎあへり。そがひまに、こなたの舟は、とも
綱を解きて漕(こ)き出でんとすれば、見送りの人々に、別れのことばかはすうち、舟はと
くゆるぎて、こぎはじめぬ。
 遠からぬ道の別れと思へとも
     心は跡に残りぬるかな
此頃の雨に、女鳥羽川田川も、水かさ常より多ければ、舟のゆくこと速にして、舟人ら
は、艪舳(ろじく)に立ちて、只かぢをとり、方向を定むるのみなり。
 瀬を早み漕行儘に送りこし
     岸への人も見えすなりぬる
 
  (改頁)
 
此わたりは、むかし我が《カミヅツミ》さし、釣たれ、游ぎなどして、遊びし所なるが、淵瀬さまで
変りたりとも見えず、岸の柳の老木、幹なかば朽ちはてたるなど、若木のかげの、緑に
打靡(なび)きたるよりも、いと哀に覚えたり。
 鮠(はや)釣りし田川の岸の柳陰
     枝もまはらに朽ち残りたる
田川と奈良井川と、二川の落あふ所は、水深くて、今も游ぎするによき所なりといへ
は甥傍(かたわら)より、されば我等も日ごとに来ぬといへり。
 二川の瀬こそかはらね游ぎして  
     遊ひし我は老にけるかな
宮淵を過ぎ、青嶋に来、橋あり、新橋といふ。橋のあなたなる家に、舟を待てるもの二
三人ありて、乗せよといへば、舟人は今あとより来る舟は人少し、それを待てといひ
捨てゝ行き過ぐ。平瀬のわたり、綱手引きてのぼりくる舟あり、くだり舟にべらぶ
れば、いと心ゆかぬわざなりけり。
 宮淵や青嶋すきてゅく舟の
     浪も平瀬は静けかりけり
 
  (改頁)      2
 
 ひく舟の長き綱手を心にて
     昨日も今日ものほりきつらん
こゝに石を畳みて、新に築きし長き堤見ゆ。此年頃、県会の議案に、土木費の多きを
見るも、ゆゑありけりとぞ覚ゆる。梓川は、熊倉に至りて、奈良井川とあへども、常は
水もなくて、風吹けば、広き河原にたつものは、只砂の波のみなり。
 打わたす梓の川は水かれて
    わたりを守る舟人もなし
 梓川いや遠白しとし/\に
     幾千町田かあらしはてけん
田澤、光、塔原を過ぎ、押野の此方にて、また高瀬川来りあへり。是もほと/\水の流
るゝ瀬はなくて、白き砂の河原のみぞ広き。
 雨ふれは岩こす浪の高瀬川
     瀬の音は絶て名のみ也けり
高瀬、梓の二川は、年々沿岸の良田をひたして、南北安曇の患をなすのみならず、県会、
国庫のわづらひをなすこと少なからず、是らの川も、今より七八十年前の頃までは、
 
  (改頁)
 
此方彼方の岸に立ちて、語りあうこと難からざりき、とかつてある老人に聞きたり
しが、今は広き所は、半道もありぬべし。押野にはもと舟橋ありしを、近き頃板橋わ
たしゝに、そは流れうせて、渡りの舟だになくなりぬ。潮の木戸といふ地は、篠井よ
り来る鉄道、白坂隧道を過きて、川手に出る所なり。今朝はからずも、もとわが家塾
に在りし、松田嘉重氏と、舟を共にして来りしが、氏は今、白坂隊道の工事に従へりと
て、こゝより別れ去りしに、まもなく又来ければ、何か忘れたるにやと思ふほどに、酒
と梨とをもて来て、舟の心やりにとて、おくりくれて立去りぬ、こゝろざしいと忝し。
ゆく/\その酒を、おのれも飲み、傍や人にものましめたれば、皆ゑひて眠りふすも
あり。尚飲み尽さで残りたるをば、舟人に与ふれば、彼ら思ひかけぬさまにて、けし
きあしからず。
 諸共にのまぬはかりそ恨みなる
     人皆ゑゝり君かなさけに
生野生坂辺りよりは岸やゝせまりて、水深く、岩こす波の、をり/\は舟の中に打人て
おもひかけぬに、浪のぬれ衣かつきたるも、わびしきや。
 岩こゆる浪のぬれ衣をり/\は
 
  (改頁)      3
 
     思ひもかけすきるかわひしさ
さらでも所せき小舟に、五十人あまり乗りたつだに苦しきを、まして十時過る頃よ
りは、暑さも堪へがたくて、よどまね早瀬をさし下す舟すらも、路はかどらぬこゝち
せらるればにや、かはる/\にこし方ゆく先の道程、あるは時刻などをぞ問ふめる。
 所せく心ゆかねは共同(もあい)舟
     やかても人のうみはてにけり
下生坂、大日方など過ぎて、山の狭いと迫りたる所に来る、こゝを山清路(さんせいじ)といふ。 こ
の川筋にて、いとけしきすぐれたる所なり、山はみな、大きなる岩もて畳みあげ、岩ご
とに松おひ立ち、岩根には、躑躅(つつじ)山吹さらぬこと木もまじらひて、下ゆく水に緑を添
へ、くれゆく春は、また波の色を、こがねくれないに、染かへて、みやびの道にうとき田
舎人だに、みな目とめぬはあらざりけりと、その水の淀みたる所を、龍が淵といひそ
の、岩の猛きけたものに似たるを、獅子岩といひ、みぎわに浮びあがりたるを、亀岩と
いひ、なほこの外もおほかんめる。
 山高く岩ねこゝしく聳えたる
     谷の下ゆくさい川のみつ
 
  (改頁)
 
 岩はみな松おひたちて川水に
     うつる緑の影そすゝしき
 岩ねにはつゝし山吹春はしも
     波の色さへ香に匂ふらん
 異国にすむときゝにし獣の
     猛き名にたつ岩は獅子岩
 み空ゆく龍のすむてふ淵ならむ
     水のこゝろも底意しられす
 萬代を清きみきはに住馴て
     亀も岩ほとなりやしつらん  
 来て見れは見る度毎に山川の
     所まさりてあくよしもなし
山清路より、新町までは、記すべき程の所もなし。安曇、更級、水内、三郡の界は、大むね
犀川にて限られたるに、橋木、日名、大原、鹿谷は川の西にありながら更級につきたる
は、誰しも疑ふところならんも、地質といひ、言語といひ、安曇の方とは違て、川を隔て
 
  (改頁)      4
 
し更級に同じとぞ、上つ世に国郡を定め給へるわざの容易からざりしを、おもひ見
る一はしともなるべきにこそ。とかうしてこぎ来るほどに遥(はるか)に新町も見えそめ
ぬれば、惓(う)み果てぬる人々の心も、とみに喜びの、色にあらはれたリ。かくて午后一
時三十分に、舟は事なく新町の岸に着きぬ。
 はゞ上を今朝こき出て川舟の
     安くも来ぬる新町のさと
人々別れをも告げず、われ先にと舟をおりて、あるは飲食店にゆくもあり、或は氷水
に咽(のど)をうるほすもあり、または馬を雇ひて乗るもあり。我らは舟の中にて、昼飯を
へたれば、新町にはしばしも足をとゞめずして来しに、空かき曇りて、すこし雨ふり
出てぬ、されどさせることもなくて、ふりみふらずみむしあつかりしが、かたてりに
照りはたゝくよりはとぞ覚えし。かくて半道ばかりも来しほどにわかれ路あり。
左すれば笹平に至るべし、おのれさきつ年、大町よりかへるとて雪ふりける日、此に
てふみ迷ひしことあり。こたびは前に懲りたれば、右して水内の久米路橋(注2)に来ぬ。
此橋は拾遺集(注3)によみ人しらず、「埋木はなか虫はむといふめれは、久米路のはしは心
してゆけ」とありて古くより其名しられたり橋は犀川の岸に迫りて、こゝしき岩の
 
  (改頁)
 
聳(そび)えたる上にわたし、長さ二十一間、高十間餘り、橋柱もなくて奇しく構へたり。北
の岸は殊に高くて松とも生ひ茂り、南の岸には、瀧つ瀬かゝりて、おのづからなる趣、
絵も及ばぬばかりなり
 昔たれ久米路の橋をかけそめて
     ゆきゝ絶せす世をわたるらん
 つぬさはふ岩根の床の朽ちせねは
     久米路の橋も絶えしとそ思ふ
 心して昔はこえし久米路はし
     馬も車もやすくこそゆけ
 伏して見れは目もくるめきぬ久米路橋
     下ゆく水の早き瀬音に
橋を過ぎてあやしき家あり、立よりて休はんとすれば、あまりにむさくるしければ、
体はで来けるに、みな口かわけば、水ほしといひつゝくるほどに、路のかたへに、清水
の流れいづるあリ。
 あへき来てうれしきものは路のへに
 
  (改頁)      5
 
     湧きて流るゝ清水なりけり
またしばらくのぼりくれば、氷うる茶店あり、立よりて見れば、先にこし人も休らひ
てあり。こゝはこの山路の頂上ともいふべきところなり。
 氷うる家の軒端に立よれは
     風もかよひて凉しかりけり
こゝよりは下り路なれば、足も進みやすし。田の口を過ぎ、石川に来り右すれば
の井宿
に至る本道なれども、遠ければ、左してまた右に折れ、里道を経て、停車場に出
づ。時に午后五時過ぐる頃にて、長野下り汽車の出てたつは、五時五十分なれば、停
車場前の茶店に休ふ。此地中央接続線の鉄道工事始りしより、人さはになりて、家
居も数まし朝け夕けの煙立そひぬるも、進みゆくみ代のしるしにこそ。
 年々に家居はまして人くさの
     いや茂りゆく篠ノ井のさと
 まかね路はこゝに別れて冠着の
     洞の中みち過きてゆくらん
など思ひつゝくるほどに、時も頓て六時近くなりぬ。
 
  (改頁)
 
 いかつちのをちに轟く音ならで 
     時し違へす汽車は来にけり
車もとゞまりぬれば、下るものはくだり、乗るものは乗りて、呼子の笛の音に汽車ま
たゆらぎはじめつぎ/\に早さをまして、とき風の枯野をわたるがごとく忽(たちま)ちに
して犀川、たちまちにして裾花川の鉄橋も過ぎて、汽笛の音一こゑ高くひゞけ
ば、はや長野停車場に来つきぬ。
 はかとらぬ山路にかへてまかねしく
     長野のみちはとくきつるかな 
車をいづれば、丈夫待居たり。誠喜と丈夫とは、七年前に別れつるまゝなれば互に
わすれて知らざりけり。斯て妻科の仮すまゐに帰りしは、六時三十分なりき。き
のふより此地は盂蘭盆(うらぼん)なれど、雨ふり出てたれは、今宵はそとへも出でず。
 なき人を忍ふ涙もふりそへて
       雨夜さひしき魂まつりかな
松本にて見聞きし事ども。父に語りきこえて、十時ころいぬ。夜いとむしあつし。
 音たてゝ軒のひさしに降る雨も
 
  (改頁)      6
 
     残る暑さは洗はさりけり
 
 
(注1)兄の意
(注2)もと水内橋と言った。犀川が両岸から迫る岸壁によって狭められ峡谷をなしている所に、桟と刎橋を併用して巧みな技で架けられた特異な橋で、日本三大奇橋とも呼ばれた。
(注3)拾遺和歌集の略称。第3番目の勅撰集。1006年前後の成立で、紀貫之、柿本人麻呂はじめ1350首ほどが収められている。
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