[解説]

原町問屋日記(安政6年 6・7月)
上田歴史研究会 阿部勇

 日本初の生糸輸出は、どこで製造された糸を、誰が扱い、どの国へ売ったのか。開港当初から生糸輸出をしていた上田を調べていると興味をひかれる話題である。
 諸説あるなかで、安政六年六月二十八日横浜で芝屋清五郎が(イギリス商人に)売ったという話が事実に近いだろうと言われてきた。本当だろうか。上田藩の生糸輸出を追ってみよう。
 幕府老中であった上田藩主松平忠固(忠優を改名)は、この前年すでに老中を罷免されている。上田藩の生糸輸出が本格化する安政六年九月、なぜか急死している。しかし、忠固がレールを敷いた「外国交易」の道は、次の藩主忠礼に引き継がれ、生糸貿易はますます盛んになる。
 安政五年、藩では「外国交易」を誰に依頼するか検討。明けて六年の正月、中居撰之助を上田藩江戸屋敷に呼び出し、貿易の仕事を依頼する。安政六年二月、上田から原町商人伊藤林之助らが藩命を受け江戸へ向かう。ここからは林之助の『出府日記』と『原町問屋日記』から上田藩が生糸を輸出するまでの動きを追う。
 三月、林之助らは上田藩江戸屋敷で家老岡部志津などと打合せする。芝の金杉片町の中居撰之助を訪ね「神奈川交易」の話をはじめる。以後、林之助らと撰之助の話し合いは重ねられ、四月下旬には幕府との交渉や輸出産物など大筋が決まる。
 史料【(1)五月七日】は江戸でほぼ決められた内容を、上田の商人に知らせるための会合が開かれた日の記録である。林之助らは江戸から一時上田へ帰り、商人たちに報告した内容が(1)にあたる。輸出する上田産物の候補、中居撰之助が取り扱うなどが記されている。
 生糸が外国奉行へ提出した上田の輸出産物候補の筆頭である。外国商人が欲しがっているとの情報を得ていたのであろう。他の候補産物(木綿・真綿・麻・漆・紙・生蝋・傘・石炭油・人参・麦粉・鉛・鋸と鋸板・煙草)を見ると、幕末の上田地域で生産されていた物がわかり興味深い。
 伊藤林之助らが江戸へ戻った後、中居屋撰之助横浜店建設が本格化する。六月に「中居屋」を開店させるための忙しい仕事である。
 横浜が開港したのは六月二日であるが、その日から貿易が開始されたわけではない。日本・外国商人の準備が遅れていたことと、交換レートの問題があり、六月二十日ごろまで取引は行われていない。
 上田藩の産物が店先に並べられた中居屋が横浜に開店したのが六月十九日であったことは、林之助の『出府日記』により初めて確認された。開店当日にイギリス商人が上田の品物に目を付け「話が大いに盛り上がった」と林之助の日記に記されている。十九日、イギリス商人との話しが済んでから武蔵屋(北澤)祐助が、「ごく内々」に中居屋から上田に向けて出立している。気になる記述である。しかし、その答えとイギリス人が目を付けた品物の謎が【(2)六月二十四日】の『原町問屋日記』に記されていた。(2)には横浜の貿易は「十九日始まり、生糸の引合があり相成」ったと記されている。しかも、その直後、中居屋に詰めていた上田商人武蔵屋祐助が秘密裏に横浜から上田へ戻ったというのだ。
 生糸輸出契約の成立を知らせるためではなかっただろうか(この行動は産物会所の許可を受けたものでなく、後日問題となり、処罰されている)。
(2)にあるように、両町(海野町・原町)で等分して十駄分の生糸横浜へ送る算段をしている。正式契約は成されていないだろうが、イギリス商人との確約がなければ、十駄にも及ぶ生糸を、横浜出荷する手はずは整えないだろう。
 以上のことから、上田生糸は、今まで注目されてきた「六月二十八日、芝屋清五郎」の話より早く仮契約?していたことになる。今後は、他地域での史料の発掘と検討が期待される。日本初の輸出生糸についての話題を盛り上げてくれる『原町問屋日記』『出府日記』である。
 七月に入ると、上田産生糸への注文が外国から頻繁に入ってくる【(3)七月朔日】。支払代金が滞っているのか、七月朔日段階での取引は順調に進んでいないようにも見えるが、以後輸出は増大していく。
 幕末から明治にかけて、生糸輸出は上田地域を潤す。一時的ではあるが蚕種の輸出も重なり、周辺農村部の養蚕はますます盛んになる。明治維新期の上田地域社会は、生糸・蚕種・製糸の展開を抜きにしては考えられない。