この編は『浅間山』の中核部分であり、本書のなかで最も多い一七〇余ページにもわたる記述がなされています。三章に分かれ、それぞれに節が置かれ、章によってはさらに「その1」「その2」や《上》《中》《下》などの項が立てられています。
本書の記述内容に入る前に、浅間山の火山活動について概観しましょう。
現在も活発な火山活動を続けている浅間山は、中央の前掛山、西の黒斑山、東の仏岩山と呼ばれている三層の成層火山が重なり合ってできています。火山活動は黒斑(くろふ)山からはじまったとされ、それは今から約九万年のことといわれます。続いて約二万年前から仏(ほとけ)岩(いわ)山の活動がはじまり、約一万年前から前掛(まえかけ)山の活動がはじまったとされています。古代からの噴火のなかでは、天仁元年(一一〇八)と天明三年(一七八三)の大噴火がよく知られています。
天仁元年の大噴火では、大量の追分火砕流が上州と信州の山麓を埋め尽くし、軽石が飛び、火山灰が関東一円に降りました。降灰などによる被害で荒廃地となった土地を再開発する過程で上野国や下野国では多くの荘園がつくられ、中世的な社会体制が生み出されていったと、歴史研究者の峰岸純夫が指摘しています。浅間山の噴火が日本の歴史を大きく動かしたのです。
天明三年の大噴火は、四月八~九日からはじまり、七月六~八に最後の大噴火を起こしました。七月の大噴火では、吾妻火砕流で山麓の原野が焼かれ、鎌原火砕流で鎌原村を呑み込み吾妻川をせき止め、それが決壊して利根川に流入、大洪水による被害は甚大なものとなりました。今は観光地として人が訪れる「鬼押(おにおし)出(だし)」はこのときできたものです。
このときの被害は、流失家屋役一一五〇個、流死者一六二〇余名といわれています。降灰による農作物や家畜への被害と噴火後の天候不順は、天明の大飢饉をひきおこし、百姓一揆が頻発し社会が不安定になりました。天明の浅間山大噴火は、歴史を近世から近代へと動かす一因ともなったのです。
第一章 山史考
第一節 天明以前の浅間山
はじめに、天武天皇の時代から(六七〇年代)から安永六年(一七七七)までの約一一〇〇年間にわたる噴火記録残が載せられています。その数は四十八回に及び、それぞれに月日が記され、「大石、ほとはしり、砂石を降し」「大焼」などと噴火の様子が書かれています。
白鳳十四年とされた年の噴火については『日本書紀』の「三月信濃国灰零草木皆枯云」が引用され、この記述はおそらくはこの山の異変を記したものであろうとし、煙が立ち上り硫黄の気があり、坑中に硫黄が満ち・・・と続けています。これは『信濃地名考』からの引用であると注記してあります。
前述した、天仁元年の項には「七月より七月に至る大噴火、砂礫灰燼田園を埋没し、震動の聲諸国に聞ゆ『日本災異誌』」とだけ記されています。
弘安四年(一二八一)の記録には「六月九日暮方、山より西、黄なる雲出で、人倫草木迄金色の光となる。同夜、四ツ時より山焼出し、信州小諸より南四里の間灰降り、今にその跡残れり、北は山の麓まで押出し、今にそのところを石とまりという、このあたり亡村多し『浅間焼大変記』」と記されています。
最後の安永六年記録は、「皇紀二四三七《後桃園天皇の御宇》焼くる事、数次」と簡潔に結ばれています。
第二節 天明三年の浅間山」
「その(1)前記」
「聞くだに戦慄すべき、天明三年浅岳噴上の惨や、夫れ突如空隙(げき)を衝いて来りしものなる乎」ではじまる「前記」は、この前兆が十数年前からあったと述べています。以下、日記風に四月八日から、七月五日までの山の様子が記されています。
空前の大噴火は「五月二十六日午前十時の鳴動を以て」はじまり、「七月五日、・・・山の腰、裾野を焼き或は破れて四方へ散乱し、火焔を立つる様恐ろしき限りなり。…夜になり・・・径一丈余の光物出づ、其(その)様(さま)恰(あたか)も火花稲妻の如く、・・・」「翌日、関八州はいふに及ばず、信濃、加賀、能登、越中、越後、出羽、奥州まで白毛降ると伝ふ」と書かれています。
「その(2)本記」
まず、「時は文月の初 六、七、八、人生の悲惨凄惨(せいさん)ここに集り、先に詩人騒客をして泣かしめしてふ浅岳は、今や進んで罪なき数萬の生霊を屠りぬ」と被災した人々のことを書いています。
次に《上》と項を改め、七月六、七、八日の噴火の状況と、浅間山麓信州側の村々の被害や、人々が逃げまどい苦しむ様子が具体的に書かれ「混乱実に名状すべからず」としています。
《中》では、上州を中心に関東の惨状が書かれています。上州鎌原村については、くわしく書かれ「見る間に全村壊滅の悲運に会す」とあります。お堂が高い小丘の上にあったので、村人はそこを目指し石段を駆け上がったが「及ばずして泥流中に葬られたるもの総て五〇〇人と」とあり、「堂前の石碑空しく遺恨を千載に止めて、徒に遊子の血流を絞る」と書かれています。現在は、お堂の石段が発掘され、悲惨な歴史のあとを見学したり、火山災害から学ぶことができるように整備されています。
利根川については「坂東太郎陸となる」の見出しで、流域の被害がくわしく記され「川辺毎夜に泣き叫ぶ幽魂を慰めんとして、寺々施餓鬼供養法事を行ふ」と述べています。
最後に「泥流通過の村々」の表が付されています。そこには吾妻郡と群馬郡の村々三十六ケ村の名が挙げられています。
《下》には、噴火直後の八月に登山した佐久郡平根村の同志十人組の一隊が話した浅間山の様子が載せられています。(『信濃国浅間変之記』)これには「前掛山、南、北、西、残らず割れて其数を知らず・・・割目々々より煙出る、釜山は前掛山より殊の外高くなり、八重八角に破れたり・・・」と話したとあります。このほか、何組の登山隊が登り、それぞれの報告に「以て災後の浅岳を知る唯一の好資料たるべき也」と書いています。
「その(3)後記」
噴火後の村の状況、村人の救済策はどのようになされたのかを《上』《中》《下》に分けて記してあります。
まず、領主が被災地域の見分役人を派遣し、被害状況を確認。報告をもとに被害に応じて夫食代、焼家普請金、畑開発金などを出し、復興に努めていることがわかります。
第三節は天明以後の浅間山です。
享和三年の大焼から明治四十二年まで、八回に及ぶ噴火が記されています。このうち明治三十三年はややくわしく、同四十二年は大変くわしく記されています。
明治四十二年というと『浅間山』執筆中の出来事、これまでになく具体的で、さまざまな情報が入っています。
「一月二十九日、午後四時四十分より約四十分間大に鳴動し」からはじまる文章、何分まで記されています。「五月三十一日、夜に入り十一時二十分、巨砲の如しといはんより寧(むし)ろダイナマイトの爆発ともいふべき、凄まじき音響」という状況を、夜汽車から目撃した光景は「・・・火花は山嶺一面に落下し炎々たる焔と化したり。殊に噴火口より西南に当たる屏風岩は一面の猛火に包まれ、その谷間は噴き出したる猛火を以て埋めたれば、恰も火の中に立ちたる火屏風の如く・・・黒烟の中より稲妻四方八方に閃(ひらめ)き、雷鳴を起こしたる・・・落下したる火は炎々と燃え上がり其状一大山火事を現出したるが如くなりし、列車の軽井沢驛に着したる頃も・・・」であったといいます。
浅間山研究会も、六月十二日に委員を派遣して実地調査し「火口丘に到れば、全山の色澤、噴火前とは大に其趣を殊ににし、新しき石を・・・」と報告しています。このほか、大屋・上田・長久保新町・長野市・上諏訪からの報告を載せています。
十二月七日の噴火は上田での地震からはじまったとあり、上州吾妻郡大笹・草津・佐久郡小沼村・岩村田町・小諸町・東京・高崎・安中・松井田・伊勢崎・前橋・浦和・熊谷・宇都宮・横浜・水戸・福島・沼津からの報告を載せています。
終わりに、「大噴火薬五十回」との見出しで、一二〇〇余年で顕著な噴火が約五十回あったとしています。また、「六十三年に一回の大噴火」とも書き、月別の噴火回数を示し「最多なるは七、八月の両月と四月及び三、二月となるを得る・・・七、八両月は一年気歴最低の月に当ればの故ならんか」と記しています。
なお、天明の大噴火に関する記録は、信州を中心に上州、武蔵、江戸などの各地に七十冊以上が残っています。
第二章 裾野史考
第一節 天明飢饉記
この節は「『天明年間』おそろしきかなこの言葉」ではじまり、天明元年から寛政にかけての天変地位を記し、飢饉の様子を《上》と《下》に分けて記しています。
《上》は、三年の飢饉について、二年の不作から書きはじめています。三年になっても不作が続き穀物が高騰し「人民草根を食す」とまで書いています。天候不順が続きますが、ここでは浅間山の噴火との関連については述べていません。四年三月には「人民草木の葉を食す」惨状であったという。
《下》は、六年の飢饉について述べています。「稲は彼岸に至りて初めて出穂を見、九月に入りて尚青く、」とあり、大凶作であったことが強調されています。村の窮状を把握し、この飢饉に対応する領主側の記録も示されています。
第二節 天明騒動記
連年の凶作により米価が高騰、人々の生活が困窮した。これが騒動の原因であるとしています。騒動の発端は「天明三年九月一八日の夜に至り、上州一の宮の北方、人見が原に立札あり」です。立札には、米価の高騰で下々の者は困窮している。下仁田の穀屋を打ちこわし、信州の穀物を囲い置いている富める人や買い占めをしている者を地打ちこわし・・・と書かれていました。
九月二十七日になると、「上州松井田筋諸村に張り札する者あり」・・・一揆勢は、安中穀屋三軒潰し・・・十月二日碓氷峠を越え軽井沢宿へ乱入・・・岩村田へ打ち入り・・・野澤に乱入、隅屋甚五右衛門を散々に潰し・・・小諸城下へ・・・田中から海野へ・・・上田町へと進みました。一揆勢は、上州から信州の佐久、小県の町村へと、広い範囲にわたって打ちこわしたのです。
この一揆勢は、買い占めをした穀屋などを打ちこわしましたが、領主への要求などがなかったため、領主側では一揆勢の考えが理解できませんでした。これまでとは大きく違う性質の一揆だったのです。この点からも、浅間山が大爆発した天明期は、江戸時代の大きな転換期だったといえましょう。