話は前後するが、秀吉が家康の出仕を要請したのに対し、家康は、信濃の情勢、特に真田との問題を理由に出仕を先延ばしにしたらしい。こうして真田問題は、家康の秀吉への従属についての障害という位置付けになってしまった。
そして、天正十四年(一五八六)七月十七日、家康自身が兵を率いて真田再攻の軍を起こし、十九日には駿府に至っている。今度は秀吉も家康の真田討伐を承認し、さらには上杉景勝に真田支援の禁止を命じてまでいる。八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした、家康が人数を出すだろうが、そちら(景勝)から真田を支援してはならないとの仰せだとしている。しかし、右の書状と同じ八月七日には、「上よりのあつかい」つまり、秀吉の斡旋で家康は真田攻めを中止している。秀吉は表面的には九月末まで真田討伐を唱えているのだが、ひそかに家康と真田の手打ちを模索していた模様であった。これは真田を上杉景勝が庇護しており、景勝から秀吉への働きかけが強かったことによるとみられる。
家康が秀吉の下へ出仕した後、秀吉が、昌幸の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛するよう促したのは十一月二十一日付けの書状であった(写真)。これには、家康のお前への遺恨についてはこちらで直に言い聞かせてやった、自分もけしからぬこととは思うが、今度のことは許してやるので…とある。
<史料解説>
天正十四年(一五八六)十一月二十一日
前年以来、秀吉は家康懐柔策の材料の一つとしても、家康と敵対する昌幸を使っていた。この天正十四年十月、家康が秀吉の下に出仕し、両者の関係が安定する。そこで、今後のその処置について申し渡すべく、昌幸に秀吉の下に出向くよう命じたもの。家康がお前を恨んでいる件については、自分から直接言い聞かせてやった、自分もけしからぬことだとは思うが、今度だけは許してやるので上洛するように、としている。