秀吉は慶長三年(一五九八)八月十八日、伏見城で没した。秀吉の遺言は五大老が遺児秀頼の成人するまで補佐するというものだった。しかし、五大老筆頭の家康は、当初より秀吉の遺命に背く行動をとった。かろうじて家康に対抗しえた前田利家も翌四年閏三月に死去する。その直後には五奉行の実力者石田三成が、加藤清正ら秀吉子飼いの武功派の武将に襲撃され失脚、居城の近江佐和山へ引っ込む。こうして家康は政務を独裁的にみるようになった。また、家康は自分以外の四大老が国元へ帰ったのを利用して、有力大名の各個撃破を図ろうとしたらしい。まず、前田利家の子利長に謀反の疑いありとして討伐の兵を出そうとした。しかし、利長は家康と争おうとはせず母親を人質として江戸へ送っている。

 これについで家康がねらったのが上杉景勝であった。景勝は慶長四年九月に帰国していたが、会津百二十万石へは前年に越後から移されたばかりであり、新領国の経営を軌道に乗せる必要があった。景勝は領内の諸城郭を修理し、兵糧・武器を貯えるなど軍備を強化したという。

 これを陰謀ありとして、慶長五年一月以降、家康景勝に上洛を促した。しかし、景勝はこれに応じなかった。そこで、家康は出兵を決定、諸大名に豊臣政権の統率者として会津出陣を指令し、自らも六月大坂城を出発した。いきなり討伐の軍勢を出すとは言いがかりには違いなかったが、景勝はこれに乗ってしまったのである。