慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、昌幸・信繁は死罪は免れ、紀州高野山(和歌山県)へ追放される。父子は高野山麓の九度山(くどやま)に落ち着く。昌幸は慶長十六年、この九度山において六十五歳で病没するが、信繁は十四年間をここで過ごした。
慶長十九年(一六一四)、徳川氏と大坂城の豊臣秀頼との間に大坂冬の陣が起こる。九度山を脱出して大坂に入城した信繁は、地形的に最も攻め込まれやすい南方に、出城、いわゆる真田丸を築き、ここに立てこもった。この冬の陣では大きな戦闘はなく、目立ったのは幸村の真田丸での奮戦ぐらいであった。
その翌二十年の夏の陣で幸村は、徳川軍の本陣を突き崩し家康を危機に陥れる程の大活躍ののち討死したと伝える。長く流人として不本意な生活を送った信繁にとっては、よい死に場所を得たとも言える戦いであった。
<史料解説>
真田昌幸・幸村の高野山配流に随行した家臣河野清右衛門の家に伝わったもの。幸村の肖像としてよく知られている絵だが、高野山蓮華定院に伝わる同じ画像の箱書きには「真田源太左衛門信綱侯御画像」とある。信綱は幸村の父昌幸の兄で、長篠の戦いで討死にしている。真田家が慰霊のために納めた画像とすると、信綱像とした方が自然ではあろうか。