[解説]

上田歴史研究会 阿部勇

 信濃国上田の上野尚志によって明治七年(1875)一月に著された『信濃國村名盡』は、厚い本ではありませんが、上下二巻に分かれています。これは、本書が著された明治七年、信濃国が筑摩県長野県とに分かれていたことに起因するのです。では、現在の長野県はどのようにして成立したのでしょうか。
 慶応四年(1868)八月二日、信濃国には県庁を伊那郡飯島に置いた伊那県が生まれました。伊那県の管轄区域は、はじめ伊那郡の三十六カ村に限られていましたが、明治元年(1868)から二年にかけて、信濃国全域の幕府領と旗本領におよびました。その後、明治三年九月十七日には、東北信の伊那県は分離して中野県となりました。中野に県庁がおかれた中野県は、四年月二十二日に県庁を長野に移し長野県となりました。
 一方、信濃の各藩は、明治四年七月の廃藩置県により、そのまま県となりました、松代県、上田県、松本県、飯田県などと呼ばれた期間があったということです。
 さらに、明治四年十一月二十日には、東北信の各県が長野県となり県庁を長野に置き、中南信の各県と飛騨が筑摩県となり県庁を松本に置きました。この状態が五年ほど続き、明治九年八月二十一日に旧長野県と、飛騨を分離した筑摩県が一つになり現在の長野県が成立しました。
 以上のことからわかるように、本書が著されたとき、信濃国は筑摩県長野県に分かれていたのです。したがって上巻の筑摩県、下巻の長野県と二冊にしたのです。
 
 『信濃國村名盡』の村名が書かれた上部には第一大区、一小区、二小区などと記されています。これは、明治政府が決めた新しい地方制度、大区・小区制によるものです。
 明治五年(1872)政府は、それまでの名主・庄屋・年寄など、江戸時代からの身分的職制を廃止し、地理的区画を管轄する役職としての戸長・副戸長を設けそれぞれの地域を大区・小区に分け、大区には区長一人、小区に副区長などを置くことを命じました。これが大区・小区制です。
 筑摩県では明治六年四月に大小区一覧表を提示し、区長事務取扱法を発して三〇大区・一九九小区でこの制度をはじめました。長野県はやや遅れて七年七月に、二八大区・一九〇小区の制度がはじまりました。
 大区はおおよそ五〇〇〇戸、小区はおおよそ五〇〇戸で編成されました。原則として大区には区長・副区長を一人ずつ、小区には戸長・副戸長を一人ずつ置くことになっていましたが、筑摩県長野県ともこの定員通りには任命されませんでした。この地方制度は、明治十一年(1878)に公布された三新法に沿ってよく十二年に変えられていきます。
 したがって、その間に著された『信濃國村名盡』には、第一大区、一小区、などが書かれているのです。明治前期の町村名と、現在残っている地名とを比べてみましょう。