[解説]

「月桂新誌」(7冊)
本市文書館 小芳郎

 『月桂新誌』は、明治12年(1879)1月6日創刊の第1号から、同14年6月16日の第144号にわたり、本の月桂社から発行された民間の教育・時論雑誌である。『月桂新誌』の月桂とは、月桂樹のことである。
 社主は市川量造、編集長は竹内泰信松沢求策らが『本新聞』と兼任した。印刷長は清水義寿、のち窪田重平となった。
 明治11年7月12日に政府は、太政官布告第17号をもって郡区町村編制法、府県会規則および地方税規則という、いわゆる地方三新法を公布した。この郡区町村編制法によって従来の大区小区制が改められ、旧制の郡町村制が復活した。これにより区長が廃止されて郡長が置かれることになり、同時に従来中学区ごとに置かれていた学区取締も廃止されることになった。
 長野県では明治12年1月4日乙第1号をもって、16郡と郡役所の位置並びに所属町村を定め、乙第2号で各大区会所および区長・学区取締の廃止を達した。『月桂新誌』の第1号の発行は、その2日後の1月6日付となっている。郡町村編制の施行と並行して『月桂新誌』が生まれてきたといえる。
 この時期は、「学制」から「教育令」「改正教育令」へと国の教育施策が変わって行く時期であり自由民権運動の高揚期で、本に「奨匡社」が結成された時期でもあった。
 『月桂新誌』の紙面は、国や県の教育布達社説・論説、教員の投書・生徒の作文のほか、理化学問答・落語・謎解きなどの啓蒙娯楽記事、各地の学校や教員生徒の動静の雑報記事、漢詩文・和歌の文苑欄、などで、教育啓蒙雑誌にとどまらず、明治初期の政治・社会・思想・文化の各分野にわたり多彩である。
 月桂社の社主は一貫して市川量造で、市川は本平における明治期の啓蒙家で、新聞人として、また政治家として知られた人物である。『信飛新聞』の発行人となり、県会議員や郡長をつとめた。
 印刷長は第29号までが清水義寿、第30号から終刊号までは窪田重平がなっている。編輯長は4人で、第29号(明治12年8月4日)までは竹内泰信、第52号(明治13年2月1日)までは松沢求策、第69号(明治13年5月26日)まで市川量造が社主兼編輯、それ以降は、仮編輯または仮編輯長として三上忠貞である。
 松沢求策は、本の民権政社である奨匡社総代として、国会開設運動に参加して注目された自由民権運動家である。窪田重平は、『信飛新聞』の創刊者で、市川量造とともに活躍した言論人で、政治家の窪田畔夫の実弟。
 『月桂新誌』は、第1号から第29号(明治12年8月4日)までは、縦22.3cm、横16.2cmの大きさで、毎号8頁だて。綴じはなく、用紙2枚を重ねて二つ折りとしたものである。第30号からは、縦18.3cm、横11.9cmの小型になり、活字も小さくなった。
 月桂社は、最初、南深志町一番丁(本町)にあり知新堂内に本局が置かれたという。知新堂は、明治初年に開設された印刷所で、筑摩郡和田村(現本市和田)出身の窪田畔夫が社主だった。本局がこの知新堂から北深志町に移転した先には、月桂社が併置された。移転後は、もとの本局があった知新堂に支局を置くと同時に、保高町(現、安曇野市穂高)にも支局を置いた。松沢求策編輯長の自宅である。
 値段は、第29号までは1部1銭、第30号からは1部3銭であった。発行部数は、明治12年ごろには、『本新聞』の発行部数950余部に対して、『月桂新誌』の方は800余部であったという。
 『月桂新誌』誌上をみると、たとえば教育に関する誌上討論の第1回は第30号に始まり、第66号(明治13年5月11日)で終っている。その始まりは、本の奨匡社のスタートの時期で、その終りは、奨匡社の国会開設の請願書をもって沢求索らが東京に向った月であった。奨匡社のもっとも活発な活動の期間と、『月桂新誌』の第30号から第66号までの誌上討論のあったもっとも活動的な期間とが一致していることになる。
 『月桂新誌』は明治14年9月16日に改題して『録数報』となったが、その年の11月第159号をもって終刊となった。
 文部省は、明治14年6月18日に、「小学校教員心得」を定めた。教員にして自由民権運動にたずさわることを禁止する対策でもあった。『月桂新誌』の最終号(第144号)は明治14年6月16日付の発行であり、6月18日の「小学校教員心得」の出る直前であった。「小学校教員心得」が『月桂新誌』廃刊の大きな、そして直接的な原因であったと考えられている。
 この『月桂新誌』は、全紙が復刻されて刊行されている(昭和48年12月発行)。
 ここで、掲載する『月桂新誌』は、つぎの7号である。
 
第1号 明治12年1月6日
 「社説 桂樹の説 社主 市川量造」「雑報」「なぞ」「判事物」「落語」「事物の質問」「窮理問題」「祝辞」。
 『月桂新誌』が、どのような考えのもとで発刊されたかについて、「桂樹ノ説」と、それに続く「凡新闘雑誌ノ類云々」に始まる社主市川量造文章で知ることができる。雑誌発行の目的として、「今回学童奨励ノ一端ニ供スル新誌ヲ刊行センコトヲ企テ」たとのべている。
 
第2号 1月13日
「社説 体操論」「雑報」「なぞ」「はんじもの」「落語」「事物の質問」「窮理問題」「信濃名所の考え」「祝文」「投書」。
 
第3号 1月20日
「社説 体操論」「雑報」「なぞ」「はんじもの」「落語」「事物の質問」「窮理問題」「投書」。
 
第24号 6月29日
「公聞」「論説」「雑報」「なぞ」「判事物」「落語」「事物質問」「投書」。
 
第30号 10月28日
「公聞」「社説」「新報」「願乱笑語」「理学問題」「混々砕録」「投書」。
 松沢求策が編輯長となった第30号以降は、それまであった、なぞ・判事物・落語・事物の質問などの欄をなくして、論説・雑報・投書などに多く頁をさくいっぽう、それまで雑報欄に載せていた漢詩文・和歌・俳句などの文芸作品は、「混々砕録欄」を設けてさらに多く載せるようになっている。
 誌面の体裁がかわった第30号と第31号に掲載された「自由教育卜督促教育卜執カ今日ニ適切ナルヤ」という社員たちの教育討が掲載されている。
 
第37号 12月11日
「論説」「新報」「解願叢語」「混々砕録」。
 
第44号 明治13年1月21日
文部省録事」「論説」「雑報」「理学問答」「混々砕録」。