江戸時代を通じて信州には1400を超える手習塾があった。6000人以上の手習師匠が存在したようである。ただ、手習塾のほとんどは江戸時代末期、文化文政年間から天保の大飢饉のころに急速に増加しはじめ、6000人といわれる手習師匠の75%はこの時期に誕生している。この点からすれば近世中期の宝暦年間に手習塾を開業した小沢家は相当早いことになる。
しかし、信濃では手習師匠の約6割が農民身分だったとされており、村役人を長く務めた小沢家はこのタイプの師匠として、信濃の手習師匠の実態を解明する上では好事例となろう。また、和徳の手習塾は塾が急増する天保年間以降のものであったから、その点でも絶好のモデルと言えよう。
和徳の日記によれば、塾は1月21日に開き、この時に新入生のほとんどが入塾した。しかし、随時入門を受け付けており、年齢に定めもなかった。多くは7歳頃に入塾、10~12歳ころまで学んでいたようである。
年齢も入門時期も違う子どもたちを相手にするため、師匠はそれぞれの子どものそれぞれの習熟状況を見極めて教材を与えなければならなかった。マンツーマン形式の教育である。日記には、それぞれの子どもに応じて多様な教材を整えている様子が記されている。
和徳の塾は通年で開業していたが、農作業が忙しい時期や祭日には子どもも師匠もそちらに力を注ぐなど、伝統的な村落社会の習俗の中で、人々の生活のリズムに合わせて塾のスケジュールが組まれていた。子どもたちの学びの時期は農閑期が主であり、農作業の始まりとともに、来塾する子どもの数が減る。この点はこの時期の学びの様子をうたった小林一茶の句
「なまけるな イロハニホト 散る桜」(「七番日記」)
(桜が散れば農作業の季節。農閑期に懸命に学ばねばとの意)
を彷彿とさせる。
塾の最大のイベントは7月の七夕祭りに合わせた書跡コンテストと12月11日の忘年会の書跡コンテストだった。日記には、この2大イベントに取り組む師匠、子どもたち、そしてそれを見守る大人たちの姿が活き活きと描かれている。
師匠が受け取る授業料・謝礼なども詳細に記録されている。
注目すべき点は、和徳が、書籍を購入したり借用し、写本を作り村人に貸し出したことがしばしば記されていることである。手習師匠は、子どもを教育する役割だけを担ったのではない。村の貸本屋的存在でもあった。師匠の蔵書は村人にとっては図書館の役割を果たしていたのであり、師匠は地域社会の知的レベルの高低を左右する存在だったといえよう。