9
諸君は木曾山林学校へ入学して居るのであるが、御承知の如(ごと)く文部省は実業教育と云ふ事に重きを於て居るから、国庫補助をも与へて奨励するのである。殊に此(この)山林学校と云ふのは、我国に於ては木曽を以て創始とします。諸君の為め又国家の為めに大に悦ぶ可(べ)きであると同時に、生徒諸君は又国家に対して重大なる関係を有して居る。諸君は充分勉強して卒業の上は日本の林業家となり、学習経験によつて得たる知識を実業上に応用して、大は国家の利益を計ると言ふことを企望(きぼう:くわだててその達成をのぞむこと)せんければならぬ。又山林学校が創始せられたと云ふ歴史に対しても充分勉強してもらいたい。元来日本は国勢上よりしても山岳が多く有つて2,000余万町歩の森林があるが、其1町歩(ちょうぶ:1町歩は約1ヘクタール弱)に対する収益は僅(わずか)に数十銭に止まるのみである。然(しか)るに独乙(ドイツ)国にては、1町歩に対する収益は15円乃至(ないし)20円である。之れだから此山林を整理した結果、1町歩に対する収益を15円としても2億万円と云ふ莫大なる収益を収むることが出来る。又若(も)し之れを工業に応用したならば、此林業によつて生づる所の利益と云ふものは実に大なるものと云はなければならぬ。又近来工業発達し木材中より糸を得、紙を製す等、斯(こ)の諸外国の林業は著しく発達して到底日本の林業の比ではない。実に諸外国にては林業と工業とが相俟(あいま)つて、其収益を大ならしめて居る。之れと云ふのも其利用の方法が良ろしきを得た結果である。如斯(かくのごとき)林業は合理的の方法によつて之れが経営を行へば、実に一国富強の根源となるのであるから諸君は充分研究せんければならぬ。而して此林業に関する諸般の研究は其関係する所が非常に多くて頗(すこぶ)る趣味(しゅみ:おもしろみ)のあることである。唐人の寝言に木によつて魚を求めると云はれたが、此言は日本人は日常到底出来ない事を意味した言葉として、其当時は大に笑罵(しょうば:笑いののしること)したが、今日では実際木に依(より)て魚を求むることが出来るのである。森林の規則にもある通り森林と魚業との関係は実に大なるもので、魚付に必要なる場所等は保安林に編入して之れを伐ることを止め
(改頁)
てある。兎角(とかく)魚類は緑陰を好む性質があるものであつて、川の上流等の山が荒廃しないで木が黒く茂って居れば魚が沢山居る。つまり山岳から出て流れる水は清潔であるから、種々の清水を好む魚類が其地に繁殖をする。加之(しかのみならず)繁殖するは昆虫・蘚苔・水草等の食物が多いから、畢竟(ひっきょう:つまり)森林即ち木があれば魚類の繁殖するからである。然(しか)るに我国では斯云(こうい)ふ様に実業のことを考究しようと云ふ考へが乏しい。現在、我全国に於て中学校の数は200校、生徒の数は6万余人、卒業生3,000人許(ばか)り、其他は半途退学、其他の事情によって止めるものである。而(しか)し高等学校へも毎年300人許りは入学するけれども、卒業は僅かに1,500から1,600人位ひになる(注11)。実に其他の人は哀む可(べ)きである。斯(かく)の如(ごと)く現象を呈するに至るは、其原因は多いけれ共実業を蔑視(べっし:見下げること)し高等なる学問許りを企望するからである。之れ等の人々は皆実業に従事する様にしたいものです。今日我国に於ける2,000余万町歩の森林も其整理の行き届かない所がある。之れを整理するには技師3,000人、営林看守の数万人位ひなければ充分なる整理を為すことが出来ない。諸君が早く此学校を卒業して森林と撃死する覚悟でどしどし働いてもらいたい。
尚(なお)終りに臨んで田舎と都会との関係に付いて言ひます。例へて言へば田舎は淋しい、東京は繁華だと皆々東京へ集まる人多く、殊に其人許(ばか)りでなく一家を引き移す如(ごと)きものも多い。之れ国家に取りて大弊害のあることで、今日殊に必要なる実業の土地を捨て空気不潔なる処に集まり、一方には衛生に害を与へ他方には実業を軽廃するに至る。之れ国家の大毒である。之れに付き例せば、伊太利(イタリア)の羅馬(ローマ)国では、其国民が一部に集まつた所が一般の実業が廃れ、集まつた人々は奢侈(しゃた:ぜいたく)安逸に流れ其国勢大に衰へたと云ふ話がある。英国の倫敦(ロンドン)の如きも人煤稠密(ちゅうみつ:多く集まってこみあっていること)の結果大に衛生に宜しくない。学者の統計によれば都府の人は二代にして一変す。第二の都会を作る人がなくなる。畢竟(ひっきょう)之れ等の事に就きては都を適当にして、田舎の利益を発達せしむれば国家は鞏固(きょうこ:強くかたいこと)であるから、充分田舎の富源を発達せしむるが必要である。田舎に産業を起して田舎を盛んにして其劣りを防ぐことを企望します。全体日本国は山林国であるから都会に集まらず、農業に林業・工業に其発達を計り
(改頁) 10
て其都合を量れば、田舎のものが都会へは集まらぬ様になる。種々枝路に入りましたが私はどうしても田舎の実業教育をもそつと発達せしめなければならないと思ふ。諸君は森林者であるから勿論(もちろん)多く山中を跋渉され、又山林に住居なさるゝ身であるから山間僻地も御厭(おいと)ひなく奮(ふるっ)て勉強せられんことを望みます。