[翻刻]

      信州善光寺      1
       常 智 院
      永代宿坊
信州善光寺御堂額之写
       静嘉堂梓
 
  (改頁)      2  
 
抑信州善光寺御本尊ハ、忝も三国でんらいの尊ぞうにてまし/\けるにより、
くに/\うら/\より老若男女あゆみをはこび、さんけいすること、みな人々のしるところなり。
御利やく日々にあらたにして、信心ふかくきせいをかけ奉る人々、もうもくハ目をひらき、
おしハものをいひ、いざりハこしをたち、或ハもうじや如来前にすかたをあらハし、くわん
ぎせしことゞもすくなからず。御ゑい・御けちみやく等にて水にしつみしもの死がい
あがり、又ハもうじや 御ゑい・御けちみやくをいたゝきし事など、其 御利生を
蒙しあらましを、絵馬にあらはして 如来前へ奉納することかずおほし。かゝる
ふしぎの事を、まのあたり見聞せざる人々につたへて、現当二世の仏恩をしらしめん
とて、ひながたにうつさしむるのみ。
    聖徳太子御歌
いそげ人みだのみふねのかよふまにのりおくなハたれかわたさむ
    如来の御詠歌
まちわびてうらむとつげよみな人にいつをいつとていそかざるらん
 
  (改頁)
 
(上段)
 
「肥前国長崎  
  西中町 中村吉蔵
  同行四人
  
ひぜんのくに長さきより善光寺へまいる道中にて、女房
病死す。夫吉蔵二才になる子をふところにいれて
善光寺へいそぎけるに、たんバしまより女房のすがた
うす/\見へけり。両人ふしきにおもひける所に、
山門の内にて女房すがたをあらハし、夫より子を
うけとり、如来前へさんけいし、ふしおがみ、下向の
せつ夫へ子をわたし、そのまゝきえうせにけり。
ふしぎにもありがたく、現当二世のためにとて
ゑまを納申候。
 
(中段)
 
中仙道追分宿甲州屋次郎右衛門、かん病長く  
わつらひ目つふれしかハ、同国にまします
善光寺如来さまへ心願いたし、せめてハ
すこしのあかりにても見まほしく、一七日間
だんじきにてつや心願いたし、七日まんする
あかつきに御とうみやう見へけれハ、いよ/\有
かたく念仏申居しに、よのあけるにしたかひ、
仏前あり/\とおかみけれハ、まことに/\
ありかたく、そのまゝをゑまにして、御りやくを
人々に
しらせ
申たく、  「奉掛
がくを    瑞広前
納申候。
なか/\
眼病にて
ついもうもくとなり、
如来の御利やくにて
両かんひらき、うれしく、
あまり/\ありかたさに、
わかすかたをゑかきてさゝけ
奉り、世の人々にしらしむ
  
        中仙道追分宿
           甲州屋次郎右衛門
 
(下段)
 
「寛政六年三月  
  上総国佐賀在
         十治
  
わたくしハ、おしの生れつきにて、
善光寺さまへ参り候所、路ぎん
なく、御堂のゑんにつやいたし
候処、あけがたひとりの御僧さま、
ものいゝたくハ、なむあみだぶつと
いへとのたまふ。念仏申うちに、
御僧さまハ見へすなりたまふ。
ありかたくうれしきのまゝに、
ほうしやをしてこのゑまを
あけ申候。
 
  (改頁)      3
 
(上段)
 
「寛政十二年  
  庚申五月
越前国坂井郡新保村
 多田十郎右エ門
        甥 太三右エ門」
 
(中段)
 
ゑちせん坂井郡新保村重郎右衛門・甥太三右衛門、江戸より
かへるとき、善光寺へさんけいせんと一心におもふていそぎ
けるに、たんばしまにて日くれけれとも、今ばんぜひ
善光寺へつき、あさの御かい帳にあハんとて、しら
ぬみちを川まてきたるに、あめふりてしんのやみなり。
すでにながれべくおもひしゆへ、両人善光寺のかたを
ふしをかみけれバ、何となくあかりくなり、先へ老人
一人川をわたりながら、われハ善光寺のものといゝ
たまふ。なんなく川よりあがりけるに、老人ハ見へず。それ
よりやとやへつきて、ふねのある事をきゝておとろ
き、さてハ老人こそ如来さまの御みちひきを
なし下され
しと、まことニ/\
ありがたく、
此ゑまを
納申候。
「尾州田中村
  与左衛門」
 
(上段)
 
尾州田中村与右衛門、四人つれにて善光寺へ  
さんけいし、下向のみち木その山中ニて、女房
病わづらひ、山中ゆへ水さへなく、なんきとはうニ
くれ、念仏申、かいほうするうち、御さむらいき
かゝり、善光寺さまのみゑいを下され、しば
らくして人こゝろつきしゆへ、向の宿へゆき、
四五日やう生いたし候。右のおさむらい、みゑいを
下されしとき、いきやうくんじ候事ひさし。これ
善光寺の御本尊ならんとはい礼し、又々御礼参り致し候。
 
(下段)
 
「文化十一年戌年  
五月廿一 
美濃国方県郡長良郷
さぎ山村 貞善尼
みのゝくにかた/\郡さぎ山村ていぜん
もうもくになり、善光寺へ三十三度
参さんけいしてみちけるゆゑ、こんどハ御
つやいたし、ゆる/\念仏申、よもすから
をかみけるに、あけがたゆめともうつゝとも
なく如来の御らいこうあり/\はいし候
とおもひしに、両がんひらきける。ありかたし
と申もおろかなり。かゝる御りやくを人々に
御しらせ申たくゑまを納申候。
 
  (改頁)
 
(上段)
 
下総国海上郡  
銚子岡野台
梁天
辰八月二日」
下ふさのくにてうしをかのだい梁天
にて両がんつふれしゆへ、たとり/\て
善光寺へさんけいし、一七日つやしけるニ、
まんつるあかつきに、如来光明かくやくと
して来迎したまふをあり/\はいし候と
おぼへ、ゆめさめけれバ、両がんひらき、もとの
ごとくになり、うれしくあまり/\ありが
たさのまゝをゑまにして御礼まゐり
いたし、このかくを納奉り候。
 
(中段)
 
ゑちこのくにうをぬま郡十二木村庄兵衛、まい年  
善光寺へさんけいしけるに、ことしハわつらいをり、
そのうちのかげふせわしくなり、さんけいならて、のこ
りおほくおもひいたりしに、ある日、ひるねしておき、
善光寺のかたふしおがみけるハ、ゆめのうちにても
善光寺まゐりせんと、おもひしにできす、のこり
おほくふしをがみいたるに、山中にしうんたなひき
如来光明はなちらいごうしたまふをはいし、
まことに/\ありがたく、それよりくわいきいたし、
だん/\たつしやになり、御れい参りいたして
このゑまをあげ申候。
「文化九申年
四月廿七日
越後国魚沼郡
十二木村  庄兵衛
 
(下段)
 
「文政九戌三月  
 四国讃州
那賀郡

榎井村
安藤清介」 
右清介四人にて善光寺へ参り候処、
小児病死す。そのとき小児、あれ/\
如来さまと申ゆへ、みな一同に御らい
こうをおがみ、まことにありかたく、
ゑまにしておさめ奉る。
 
  (改頁)      4
 
(上段)
 
加藤新助  
天明八申年
九月二日」
 
(中段)
 
此新介、朝夕におこたらず善光寺
如来を信しんいたし、とし/\参り申
候所、御けいたいにて正身の如来様を
三度をかみ奉る。これによつて又々此たび
さんけい仕候所、御らいこうをはいし候。
あまり/\ありかたく、かくにして納申候。
「天保四年
巳三月十八日
加賀国
射水郡
行者
 源介
かくのごとく
三度まで
をがみ申候。
あまり/\
ありがたく
ゑまを
あけ申候。
 
(下段)
 
「天保三壬辰    権堂村田町  
九月十六日未明    宮下勝右衛門
 御導師の図」
 
(上段)
 
尾州中島郡おくた村 揚梅」
 
(下段)
 
「拾ヶ年の間眼病にて盲人になり候ゆへ、如来さまへ一七日
通夜いたし候処、両がんひらき、ありかたくつゑを奉納。
 享和三年  四国伊与国 宇和島寅之助」
右此がくのごとく、もうもくの目をひらき、いさりのこしをたちしなとハ、みなつゑをおさむ。
あまたなれハりやくし、これをのみしるす。