總持寺祖院目録 分類について
分類番号一覧
- 1 幕藩関係
- イ(1) 江戸
- ロ(2) 金沢藩
- ハ(3) 前田家
- ニ(4) 松前
- 2 總持寺
- イ(1) 能州公用留
- ロ(2) 日記・日鑑
- ハ(3) 五院輪住
- ニ(4) 山内
- ホ(5) 門前
- 3 瑞世・転衣
- イ(1) 京都
- ロ(2) 道正庵
- ハ(3) 勧修寺家・令旨
- ニ(4) 転衣寺院書上
- ホ(5) 住山記
- 4 勧化
- イ(1) 遠忌・勧化
- ロ(2) 音物帳
- 5 金融
- イ(1) 貸付金・借入金
- ロ(2) 随喜講
- ハ(3) 上納金
- 6 本末関係
- イ(1) 法度・掟
- ロ(2) 由緒書
- ハ(3) 寺院本末帳
- ニ(4) 末寺
- ホ(5)①永沢寺
- ホ(5)②瑞龍寺
- ホ(5)③鳳林寺
- ホ(5)④可睡斎
- ホ(5)⑤宝泉寺
- ホ(5)⑥耕雲寺
- ヘ(6) 本末出入
- ト(7) 後住届
- 7 永平寺と関三刹
- イ(1) 免牘
- ロ(2) 永平寺
- ハ(3) 関三刹
- ニ(4) 三衣一条一件
- 8 劔
- 9 明治期史料
- 10 大正期資料
- 11 昭和期資料
- 独立関係史料
- 浜岡屋
分類番号について
本システムで公開される總持寺祖院所蔵史料目録は、2001年から2020年までに調査・整理された史料の目録である。詳しい成立の経緯や、項目別の史料解説は、以下の「はじめに」以下をご参照頂きたい。ここでは、利用に際して、「分類番号」に付いて説明する。
例えば「越後国草水観音寺校割記」は、「分類番号」が「6-4-1712」のように表示される。これは、検索結果の画面の項目の内、「資料分類(中分類)- 資料分類(小分類) -史料番号」に対応する。よって、總持寺祖院で史料を実見したり、論文の典拠として記載したりする際には、「分類番号」を「6 本末関係-ニ 末寺-1712」と読み替えて頂きたい。
なお「越後国草水観音寺校割記」は、「分類番号」が「8-8-0140」の検索結果も表示される。これは、当初は「剱」として分類され、後に該当項目に改めて分類し直されたものであり、当初の分類の結果を残すためにこのように措置している。
よって、現在は「6-4-1712」の方に収蔵されていることから、検索結果が2つ表示された際は、新しい「分類番号」を使用されたい。なお、「剱」の再分類は現在も継続して行われているため、「剱」のみが検索結果に表示された場合は、当該史料は現在は他の項目に収蔵されている場合がある。
はじめに
本目録は、石川県輪島市門前の曹洞宗大本山總持寺能登祖院(以下、總持寺祖院)に保管されている古文書史料のうち、2015年から2020年までに調査・整理することができた史料の目録を中心としている。
總持寺祖院に保管されている古文書史料は、現在までに2万数千点が確認されており、2001年から明治大学圭室文雄研究室(当時)を中心として本格的な調査が開始された。2015年度からは地元自治体である輪島市の支援を受け、「大本山總持寺祖院古文書研究会」(会長 圭室文雄明治大学名誉教授/淑徳大学客員教授)が組織され、古文書史料の調査と整理が継続されてきた。同研究会が組織されたのち、整理することができた史料を目録化したものが本目録である。
總持寺祖院史料は、すでに日本近代仏教史研究会編『曹洞宗大本山總持寺能登祖院古文書目録』(2005年有峰書房新社)にまとめられているが、同目録が刊行されて以降も調査は継続され、今日に至っている。本目録は、次に述べるように上記の目録を踏襲する形式で編纂されている。
なお、2006年以降2014年までに整理した史料については、機会を改めて報告書としてまとめる予定である。
1.目録記載の内容
本目録に記載されている内容は、史料名と年代、関連する国名(明治時代以降は県名)、差出人と請取人、数量及び史料の形態と備考欄から構成されている。この点については、一般的にまとめられている史料目録におおよそ準じている。
2.分類項目の内容
本目録にて分類した項目については、『2005年版 總持寺祖院目録』と同一である。同目録には、それぞれの分類項目の特徴について大まかな解説を加えているので、これを参照していただきたい。
項目別史料解説
1 幕藩関係>>資料一覧
- イ 江戸
- 江戸の項では将軍家・寺社奉行・本郷の加賀藩邸などに関する史料が多い。将軍家に関しては将軍の代替わり・年賀・葬儀等に際して、總持寺住職や代僧が登城した時の往復書簡。寺社奉行では就任・交代・年礼等の史料、勧化金の許可に関する史料、その他寺社奉行よりの書簡・布達・願書等の記録類。本郷加賀藩邸に関する史料は将軍家・寺社奉行への取次ぎ史料、總持寺勧化金を江戸で集金したものを本郷屋敷に納め国元へ送金している史料等である。
- ロ 加賀藩
- 藩主の遠忌・葬儀に関する史料、藩主参勤交代につき出府・帰国の通知、加賀藩寺社奉行交代の通知、加賀藩よりの布達、總持寺伽藍修復・再建に対する加賀藩よりの寄進に関する史料。
- ハ 前田家
- 加賀藩・富山藩・大聖寺藩の歴代藩主からの書簡。その中では加賀藩が圧倒的に多い。加賀藩主では前田光高・綱紀・吉徳・宗辰・重熙・重教・治修・斉広・斉泰・吉治等の書簡である。年頭の賀儀・藩主の参勤交代帰国・藩主位階昇進の祝賀・藩主や家族の葬儀参列等のおり、總持寺住職が金沢城に挨拶に出向いた事への藩主よりの礼状。富山藩主は前田利次・利隆、大聖寺藩主は前田利治・利明からの書簡で内容はいずれも前述の通りである。
- ニ 松前
- 幕末の曹洞宗北海道布教に関する史料、松前藩主松前矩広・邦広よりの書簡。松前藩は總持寺へ昆布200本を毎年寄進している。
2 總持寺>>資料一覧
- イ 能州公用留
- 寛永6年(1629)以降明治期までの分が揃っている。江戸時代の總持寺の歴史をたどる絶好の史料である。正保元年(1644)以降は毎年の分がほぼ完全に残っている。内容は幕府・勧修寺(伝奏家)・加賀藩・関三刹等からの布達・書簡類、總持寺が末寺に出した掟・布達、末寺から本山への願書・上申書等を記録したもの。この史料で江戸時代の總持寺の歴史を克明にたどる事が出来る。
- ロ 日鑑・日記
- 能州公用留を補完出来る史料。まとまっているのは道元禅師600回遠忌日鑑と三衣一条一件の折江戸で役僧が記した日記。
- ハ 五院輪住
- 五院とは總持寺の山内にあった普蔵院・妙高庵・洞川庵・伝法庵・如意庵のことである。總持寺は古くからこの五院の住職が一年の内75日ずつ交代で總持寺住職を務め、その運営にあたった。この制度が廃止されたのは明治2年(1869)のことである。五院住職は毎年全国の末寺のうち輪番格の寺院から五院に入り、一年で交代する制度である。現存する史料は末寺住職の五院輪住職請書・末寺所在地の大名から總持寺へ提出した輪住職終了帰国についての報告書が主なものである。この他五院住職辞退願いもかなり残っている。
- ニ 山内
- 總持寺山内のさまざまな史料をここに入れた。主なものは、伽藍の修復・山内寺院書上・諸法会・収支書上帳・什物帳・地方寺院僧侶の到着帳・入門帳・總持寺由緒書・山内人別帳等である。
- ホ 門前
- 山内とも関連する史料があるが、主なものは検地帳・金銀貸付帳・門前家数書上・門前商人書上・貸付米帳・寺領関係・總持寺代官関係等である。
3 瑞世・転衣>>資料一覧
- イ 京都
- ここでは京都関係の史料をまとめた。天皇の関係では即位・崩御に関する史料。伝奏家勧修寺では瑞世に関する布達・勧化願。京都の衣屋海老屋長左衛門よりの書簡等。
- ロ 道正庵
- 道正庵とは曹洞宗僧侶の位階を伝奏勧修寺家へ取り次ぐ役割をした所である。国師号・禅師号はもとより転衣(瑞世)に至るまですべての位階の窓口と代書人的役割を果たしていた。明治2年(1869)に位階制度が廃止されたので、その業務を中止した。また一方では「道正庵解毒円」という薬を全国の曹洞宗寺院をネットワークとして販売する薬屋でもあった。特にここでは歴代道正庵主の中で慶長13年(1608)の玄由をはじめとし、そのご良順・卜順・恒順・貞順・承順・省順・恭順・勝順等の書簡が数多く残されており、その内容は国師号・禅師号・紫衣・瑞世等の位階付与と寺名・僧侶名の書上等。そのほか道正庵解毒円の販売の促進、また京都の朝廷や勧修寺家の様子を報じた史料も多く含まれている。
- ハ 勧修寺・令旨
- 曹洞宗僧侶の転衣(瑞世)の辞令を書上げたもので、年号がはっきりしている物の上限は寛永2年(1625)で、それ以降のものも数多く含まれている。辞令の発給者は三宅光信・三宅光清を初めとし、勧修寺家歴代執事と勧修寺家の当主である。これは「住山帳」に記入する前の原文書である。
- ニ 転衣寺院住職書上
- 転衣(一人金5両 本山へ納入)は両本山(永平寺・總持寺)にとっては最も大きな収入源であった。両本山とも年間200名前後が見込まれ、金1000両の収入を得ている。これは時によっては年間収入の9割近くを占めている。そのため両本山ともに相手方の転衣の数が関心の的であった。そのため伝奏勧修寺家の窓口であった道正庵から両本山に対し毎年永平寺・總持寺双方の転衣数を報告させている。ふるくは慶安元年(1648)から転衣数のみを報告させている。天保5年(1834)以降は毎年転衣寺院名と僧侶名を詳しく報告させている。
- ホ 住山記
- 住山記とは總持寺で瑞世を取得した末寺僧侶のリストである。總持寺では瑞世僧侶を歴代に入れている。幕末には瑞世を約5万人が取得している。そのことを示す史料である。住山帳の多くは横浜へ移管されているが、祖院にも写しを含めて39冊残されている。特に注目すべきは没後も瑞世が与えられていることである。
4 勧化>>資料一覧
- イ 遠忌・再建・国師号下賜
- 勧化とは左記の機会に際して末寺と檀家が總持寺に寄付金を提出することを言う。具体的には總持寺の開山瑩山禅師・二代峨山禅師・五院開山禅師の遠忌、總持寺の焼失再建、瑩山禅師の国師号下賜等の機会に勧化金をあつめている。特に勧化帳は関連史料を含めると約2500点にのぽり、今回整理した史料のほぼ四分の一にあたる。
- ロ 音物帳
- これはさまざまな勧化金を集める時有力末寺や檀家への土産物を書上げた帳面である。末寺の寺格や檀家の家格により多様な土産が用意されていた事がわかる史料である。
5 金融>>資料一覧
- イ 貸付金・借入金
- 現存する史料から見ると貸付金(祠堂金)は古くから行われていたようであるが、宝暦3年(1753)頃から増加している。貸付先は加賀藩の家臣・近郷の農民・加能越の末寺等で利息は一割程度である。一方借入金は天保12年(1841)頃から多額になり、借入先は加能越の廻船問屋・有力商人・有力末寺等からのものが多い。年代が下がるにつれて、借入金は増大している。幕末の總持寺の財政はぎりぎりのところまで追い込まれていたといえる。
- ロ 随喜講
- 總持寺の財政立て直しのため安政6年(1859)から頼母子講である随喜講が結成されている。加賀・能登・越中の三か国の多くの人々がこれに参加しており、明治4年(1871)まで続いていた。
- ハ 上納金
- この史料は主として京都の衣屋である上林長左衛門(海老屋)の上納目録である。寛政2年(1790)頃からの史料が多い。この史料は總持寺祠堂金を京都で運用している上林長左衛門が利息を上納している記録である。また再建勧化の折は西国大名の勧化金の窓口にもなっている。
6 本末関係>>資料一覧
- イ 法度・掟
- 元和元年(1615)徳川家康が布達した「總持寺諸法度」から始まり、寛永6年(1629)「扶桑国中曹洞宗諸寺庵法度」等、幕法・藩法・末寺掟等である。
- ロ 由緒書
- 五院や末寺の由緒書や縁起をこの項にいれた。
- ハ 寺院本末帳
- 寛永6年(1629)曹洞宗僧録書上を上限とし、江戸時代を通じて中本山から總持寺へ提出された本末帳である。割合まとまっているのは宝永2年(1705)~ 6年、延享2年(1745)~寛延4年(1751)、宝暦10年(1760)~13年、安永7年(1778)等である。
- ニ 末寺
- 全国の末寺から總持寺へ提出された文書を一括してここに入れた。内容も多岐に渡るが、主なものを記してみると、五院輪住の延期願、僧録の願書、法幢地の願書、本末出入、末寺書上、後住出入、住職の処分、末寺由緒書、祠堂金出入、末寺歴代住職名書上等である。
- ホ 史料が多い末寺 ①~⑥
- ここでは6か寺分のみ抄出したが他の項目を詳細に見てみると必ずしもこの寺のみが史料が多いとは思われない。別項の本末出入や末寺や後住届等を参照して頂きたい。
- ヘ 本末出入
- 中本寺と末寺の争論関係の史料である。江戸時代になり本末制度が成立してくると、いずれを上位にするかでしばしば争論が行われ、その決着を本山に持ち込む例が激増した。時期は慶安2年(1649)頃から始まり幕末に至るまで続いている。先述の本末・後住届とも関連するので併せて目録を見て頂きたい。とりわけ法系が多い曹洞宗にあっては本末出入が極めて多く、行政的に形成された本末関係と本来の法系の本末関係とかなりの矛盾が見える。
- ト 後住届
- 加賀・能登・越中は原則として本山總持寺へその届けを提出していたが、それ以外のところは「後住出入」(争論)があった場合に伺いをたてていることが多い。特にまとまった史料は龍門寺(能登)・徳翁寺(能登)・龍護寺(能登)・立川寺(越中)・自得寺(越中)・補陀寺(出羽)等である。
7 永平寺と関三刹>>資料一覧
- イ 免牘
- 免牘とは本山・関三刹から末寺に出した「寺格」の辞令のことである。免牘の上限は正保2年(1645)總持寺五院から美濃国龍泰寺に出された「美濃僧録」任命状である。その後明治5年(1872)に至るまでのものである。免牘の内容は僧録・常恒会地・片法幢地・随意会地の寺格を任命するもので、差出人は関三刹が主であるが、初期には永平寺が発給したものも含まれている。また駿河・遠江・三河・伊豆等は可睡斎のものも見える。明治期になると様相が一変し、明治元年(1868)に永平寺が本山権を主張し、関三刹の触頭としての地位を否定した。明治元年~3年には永平寺臥雲が全国の曹洞宗寺院へ再度免牘を出し、曹洞宗本山であることを主張した。これに対抗して明治3年(1870)總持寺奕堂が同様に免牘を出している。しかし明治5年(1872)には永平寺環渓・總持寺奕堂が連名で免牘を出すことになり、この争論は一件落着した。ところで、免牘は本来宛先である末寺に所蔵されているべきであるが、これほど大量に總持寺に残されているのはある時期總持寺が末寺に対してその提出を命じたものと思われる。
- ロ 永平寺
- 永平寺との交流の史料は意外なほど少ない。しかし大枠で捉えるならば、寛永6年(1629)永平寺祚天の追放、總持寺による全国の僧録決定。元禄16年(1703)一師印証事件、嘉永3年(1850)三衣一条一件等も永平寺・總持寺の対立抗争事件なので、これを含めるとかなりの史料量になる。
- ハ 関三刹
- 関三刹とは曹洞宗触頭寺院である総寧寺・龍穏寺・大中寺を云う。触頭寺院とは幕府の寺社奉行の下に位置し、曹洞宗の政治的支配機構の頂点に立つ寺院である。史料は寺社奉行よりの布達、幕府の宗教統制の史料等を含んでいる。
- ニ 三衣一条一件
- 永平寺末寺の僧侶が環袈裟・環絡子を使用することを總持寺が禁止したことにより、両本山が対立抗争し、嘉永3年(1850)~文久2年(1862)までの13年間抗争は続いた。最終的には幕府寺社奉行の裁許で決着を見た。しかしその間にあっては道元禅師の画像や木像から環袈裟を墨で消したり、削り取ったりして大きな問題を残した。
8 剱>>資料一覧
- この分類項目は最後に発見された冊子の分を便宜的にここにまとめたものである。本来は1~7に編成変えをすべきところであるが、時間の制約から今回はここに一括して編入した。他の項目と参照して頂きたい。
備考欄については、先述の『曹洞宗大本山總持寺能登祖院』(以下、『2005年版 總持寺祖院目録』)にて雑文書として分類された「剱」の項目を改めて検討し、新たにそれぞれの項目に分類し直したことを踏まえ、『2005年版總持寺祖院目録』との関連がわかるように記載を加えている。
なお、この分類項目については、「分類番号について」を合わせ参照されたい。
9 明治期史料>>資料一覧
- 割合まとまっているのは、日記類、明治初年の神仏分離関係文書、寺院明細帳、曹洞宗両本山布達全書、金銭出納帳、總持寺独立関係文書、明治31年火災関係文書、伽藍再建勧化帳等である。
10 大正期資料>>資料一覧
- 基本的には工事の領収書などの、日々の動静を伝える史料や仏慈講名簿などが目に付く。特徴的なものとして、大正13年(1924)の瑩山禅師600回大遠忌の関連史料があり、その勧化の記録などが所蔵されている。
11 昭和期資料>>資料一覧
- こちらも大正期史料とは大きく変わらず、基本的な動静を伝える史料で構成される。
独立関係史料
- 明治期史料で言及される、總持寺独立関係文書を特に分類したものである。總持寺独立とは、明治25年(1892)発生した、曹洞宗から總持寺が独立分離を試みた事件のことで、「両山分離問題」等とも呼ばれる。政府・国会も巻き込んだ論争の末、最終的には明治27年に永平寺と和解し、解決した。史料は、関係の公文書や分離派の主張が記されたものなどが所蔵されている。
浜岡屋
- 2014年に總持寺祖院内にて発見されたいわゆる「襖裏張文書」史料であり、廻船問屋関連の史料と考えられる。よってその大部分は總持寺祖院史料と関連しない。ただし、輪島市地域の貴重な古文書史料であることに鑑み、これを掲載した。