1913年~1997年(年代記第2部)

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1910年代
1913年(大正2年)1914年(大正3年)1915年ころから1918年(大正7年)1919年(大正8年)
1920年代
1922年(大正11年)1923年(大正12年)1926年(昭和元年)1929年(昭和4年)1931年(昭和6年)
1930年代
1932年(昭和7年)1934年(昭和9年)1936年(昭和11年)1937年(昭和12年)1938年(昭和13年)
1939年(昭和14年)
1940年代
1940年(昭和15年)1941年(昭和16年)1943年(昭和18年)1945年(昭和20年)1946年(昭和21年)
1947年(昭和22年)1948年(昭和23年)1949年(昭和24年)
1950年代
1950年(昭和25年)1951年(昭和26年)1952年(昭和27年)1953年(昭和28年)1955年(昭和30年)
1956年(昭和31年)1957年(昭和32年)
1960年代
1961年(昭和36年)1962年(昭和37年)1964年(昭和39年)
1970年代
1970年(昭和45年)1971年(昭和46年)1973年(昭和48年)1974年(昭和49年)1977年(昭和52年)
1979年(昭和54年)
1980年代
1980年(昭和55年)1984年(昭和59年)1985年(昭和60年)1987年(昭和62年)1989年(平成元年)
1990年代
1990年(平成2年)1991年(平成3年)1992年(平成4年)1993年(平成5年)1994年(平成6年)
1995年(平成7年)1996年(平成8年)1997年(平成9年)


1913年(大正2年)
この年天候不順大凶作。米の収穫ゼロ
 この年は冷夏となり、気温が低く、八月には暴風雨に襲われ、九月一四日には初霜が降りるというさんざんな気候でした。そのため全道的な大凶作となり、恵庭村でも米の収穫はゼロ、ソバは三分作、大小豆は二分作という惨憺たるありさまでした。村では一八〇戸をこえる生活困窮者を救うための救済工事をおこなうなど対処しましたが、離農者も少なくなかったといいます。この大凶作による農民の窮乏をきっかけに、産業組合(現在の農協の前身)結成の動きが、全道に広がっていきました。

◆大正初期の馬耕風景

◆除草機(恵庭市郷土資料館)
◆農薬散布機(恵庭市郷土資料館)


1914年(大正3年)
第一次世界大戦勃発。農村は大戦景気にわく
 農村の窮状を救ったのは、この年七月に勃発した第一次世界大戦でした。この年から交戦国向けの輸出が急増。農産物価格は急上昇し、一九一六年(大正五)には開戦前の二倍から三倍にまで及んでいます。とりわけ米の価格は一九一九年(大正八)には、開戦前の四倍にまでなり、全国各地で起きた米騒動の原因となりました。都市部の庶民はインフレに苦しみますが、農村はそれまでにない景気の良さで、「豆成金」「小豆成金」などの言葉も生まれました。恵庭村の水田面積は一九一四年(大正三)の五五〇haから、一九一九年(大正八)の一四〇〇haへと一気に広がっていきます。

 

このころ「恵庭館」できる?後の映画館
 後に映画館となる恵庭館は、近藤九平によって芝居小屋として建てられました。恵庭館がいつできたかははっきりしませんが、株式会社として発足したのがこの年です。当時、芝居は庶民の最大の娯楽で、それは映画へと引き継がれます。恵庭館でも大正期には映画の上映が始まりました。恵庭館は、無声映画の時代、トーキーの時代をへて、昭和三〇年代までの映画黄金期を生き抜きますが、一九九六年(平成八)惜しまれながら閉館。恵庭の文化拠点としての歴史を閉じました。

◆多くの観客でにぎわった恵庭館


1915年ころから
私設の火防組が次々と誕生。恵庭の消防の始まり
 『恵庭市史』では、一九一五年(大正四)に茂漁・漁・恵庭(中央地区)の三つの私設火防組が、翌年には島松に私設消防組ができたとあります。火防組(消防組)は、今の消防団にあたるもので、これが恵庭の消防の始まりです。消防組を作るには多額の資金が必要だったといわれ、この年に一度にできたという市史の記述には異論もあり、設立年ははっきりしません。いずれにせよ消防組制度は、一八九四年(明治二七)の「消防組規則」によって全国統一の消防制度となっていて、恵庭の消防組がこの規則にもとづく公設の「恵庭村消防組」となるのは、一九二一年(大正一〇)のことです。

恵庭村消防


1918年(大正7年)
一人は万人のため、万人は一人のため。
恵庭村産業組合が結成
 産業組合は、ドイツ農村の協同組合をモデルにした「産業組合法」にもとづいた組織で、信用・販売・購買などの事業を目的としていました。当時農家は、商人から必要なものを「つけ買い」し、収穫したものは商人の言い値で引き渡すことが当たり前で、借金がかさんで土地を手放し小作となったり、離村することも少なくありませんでした。大正二年の大凶作は、北海道の農民にとって頼れるものが何もないことを改めてわからせたのです。恵庭村の山下権次郎、坪田幸次郎、前田孝次郎らは「農民を救済するものは組合しかない」と農家を説得して歩き、三七名の組合員を集め、この年、肥料・ムシロ・日用品などの共同購入を始めました。これが本市の産業組合(協同組合)の始まりです。

 

恵庭-札幌間に客馬車が走る。六人乗りでトコトコと
 公共交通機関がまだなかったこの年、広田作次郎が恵庭-札幌間に客馬車を走らせました。翌年には丸山長作も始めたこの客馬車は六人乗りで、冬には客馬そりになったそうです。大正一五年には、島松駅-中恵庭-中ノ枡間の定期乗合馬車も走っています。まるで西部劇の駅馬車をほうふつとさせる姿ですが、乗り心地はどうだったのでしょうか。

◆大正末期の恵庭―札幌間客馬車


1919年(大正8年)
ホルスタイン乳牛、村田牧場に初めて登場
 恵庭には明治二〇年代から民間の牧場がいくつも作られるようになりますが、大正期に入ると、しだいに酪農への方向が強くなっていきます。そのさきがけが村田牧場でした。『三村名鑑録』(昭和八)によると、村田牧場は一九一二年(大正元)に畜牛を始め、牛乳やバターの製造をおこなっています。このときの牛はエアシャー種でした。一九一七年(大正六)には、村内に牛乳屋もでき、牛乳の消費も増えたことから、大型で乳量の多いホルスタイン種を恵庭で初めて導入しました。現在は乳牛といえば白黒まだらのホルスタイン種が九九%を占めますが、恵庭にお目見えしたのはこの年でした。

◆村田牧場で使われていたバター製造器(恵庭市郷土資料館)

◆昭和初期の村田牧場/昭和8年『三村名鑑録

 昭和に入ると恵庭には次々と牧場が作られ、恵庭の酪農を全国に知らしめた福屋茂見(元北海道酪農協会会長)も牧場を開きます。一九三三年(昭和八)には、恵庭酪農振興会が結成、集乳工場が作られ、また島松では島松酪農組合と集乳所が作られるなど、酪農のまちとしての恵庭がかたちづくられていきます。
◆昭和初期の福屋牧場/昭和8年『三村名鑑録


1922年(大正11年)
「これは明るい!」。村内に初めて電灯がともる
 この年、当別電気株式会社(のちの北電)の発電所が盤尻に完成し、村内に初めて電灯がともりました。出力一,〇〇〇キロワットのこの水力発電所の建設には、青年団をはじめ多くの村民が労力を提供し、建設されました。そのときの様子は『百年一〇〇話』にくわしくいきいきと描かれています。ランプの暗さから解放された電灯の下での生活。しかし農村部に電気がゆきわたるのは、それから三十年以上たった戦後のことでした。

◆当時のランプ(恵庭市郷土資料館)


1923年(大正12年)
恵庭村に一級町村制施行。デモクラシーにはまだまだ遠く
 二級町村制が施行され恵庭村が誕生(←P34)してから十七年。この年、これまで官選首長が多かった北海道の自治制度が大きく変わり、戸長役場制度が廃止され、一級町村が九九町村へと大きく増えることになりました。戸数一,二五九戸、人口は七,〇〇〇人をこえていた恵庭村も、それにあわせて一級町村へ昇格。この制度の改革の影には、当時全国的に盛り上がりを見せていた普通選挙運動などの大正デモクラシーの影響や、北海道の人口の増加、地方財政の基盤強化などの条件が整ってきたことがありました。

◆大正12、3年ころの役場職員

 しかし、現在の制度と大きく違っていたのは、町村長が住民の選挙で直接選ばれるのではなく、町村会の議員によって選挙され、北海道庁長官が承認する仕組みになっていたこと。また議員に一級議員と二級議員があり、町村税総額の1/2を納めている多額納税者だけで議員の定数の半分を占める一級議員を選ぶなど、資産家にとって都合のいい制度になっていたことでした。この年の村会議員選挙で一級議員八名と二級議員八名が選ばれ、村長には出倉清世(きよよ)が選ばれています。
 

関東大震災。死者・行方不明者一四万人をこえる大惨事に
 この年の九月一日午前一一時五八分、関東地方を大地震が襲い、地震による津波・火災が発生。死者・行方不明者は一四万二,八〇七人、全・半壊家屋二五万四,四九九戸、焼失家屋四四万七、一二八戸をかぞえる大惨事となりました。

 首都圏の混乱は、後に金融恐慌へとつながり、恵庭村にも影を落とします。また朝鮮人暴動のデマによって多くの罪のない朝鮮人や社会主義者が殺されるなど、暗い時代の到来を予感させる大災害でした。
関東大震災の翌日の記事。北海道では、何が起こったのかまだわかっていない
(旧北海タイムス/大正12年9月2日)

関東大震災(写真提供/共同通信社)

「千恵鶴」などの地酒に村民の人気。恵庭酒造誕生
 第一次大戦の好景気を反映して、大正時代は恵庭の産業の勃興期でもありました。
 造材のための木工場がいくつもでき、この前年には西野醤油醸造工場がキッコウマルヨ印の醤油・味噌の醸造を始めています。
 恵庭酒造は、「千恵鶴」「恵庭錦」「若娘」などの銘柄の日本酒を醸造。住民に親しまれて、おおいに愛飲されたそうです。

◆恵庭酒造


1926年(大正15年・昭和元年)
村に鉄道がやってきた。村内に恵庭・島松の二つの駅
 北海道の鉄道は、一八八〇年(明治一三年) 、小樽の手宮と札幌を結ぶ路線が開業。これはわが国で三番目の鉄道でした。その後鉄路は順調に路線をのばしましたが、現在もっとも主要な幹線となっている札幌-室蘭間の鉄道は、ようやくこの年に北海道鉄道株式会社の手で沼ノ端-苗穂間が開通しました。村内には恵庭・島松の二つの駅が営業を開始。鉄道と駅の開業によって、農産物の出荷は便利になり、現在の恵庭発展の基礎ができたといっても過言ではありません。鉄道開通の日は、村民総出でくりだし、終日お祭り騒ぎが続いたといいます。村にとっては明るい話題だった鉄道の開設。しかし、その建設にはタコ部屋労働という悲惨な出来事があったことも忘れてはなりません。

鉄道開業を島松駅ホームで祝う村民

◆開設当時の島松駅
◆開設当時の恵庭駅


1929年(昭和4年)
時代はオートモビル。
島松-長沼間で乗合自動車が走る
 この年、島松-長沼間に乗合自動車が運行されます。昭和初年には恵庭-札幌間に乗合自動車が走り、昭和五年には村内にハイヤーが誕生していますので、このころ恵庭は鉄道・自動車の時代の夜明けを迎えたといえるかもしれません。

◆島松―長沼間を走った乗合自動車

 乗合自動車とは、一定の区間を定期的に走るもので、現在のバスにあたり、当時は大型の乗用車が使われていました。昭和初期に乗合自動車が普及するのは、関東大震災後の復興のために東京で市営乗合自動車が開業し、T型フォードをべースとした八〇〇台の「円太郎バス」が走ったことからでした。アメリカでフォード・モーター社が設立されるのが一九〇三年(明治三六) 、日本最初の国産ガソリンエンジン自動車が生まれたのが一九〇七年(明治四〇)。まさに二〇世紀は自動車の世紀といえます。
 

「普通選挙」による最初の村会議員選挙おこなわれる
 一九二五年(大正一四)に成立した「普通選挙法」は、納税額にかかわらず二十五歳以上の男子に選挙権を与えるというものでした。女性にはひき続き選挙権がないなど欠陥の多い「普通選挙法」でしたが、北海道の有権者数は、約五万人から約四〇万人へと一気に八倍に増え、一九二八年(昭和三)には普選下での初の衆議院選挙がおこなわれました。そしてこの年、「普通選挙」による最初の村会議員選挙によって、一級・二級の区別のない一八名の村会議員が誕生しました。

 

1931年(昭和6年)
帝室林野局の盤尻森林軌道が生まれる。
ときには人も乗せて
 幕末の飛騨屋久兵衛以来、漁川流域の木材の伐採は、恵庭の主要産業のひとつとして続けられてきました。それまで山からの木材搬出は漁川を流す「流送」でおこなってきましたが、王子製紙恵庭発電所の建設のために流送が不可能となり、それに代わる木材輸送手段と発電所建設資材の輸送をかねて軌道が敷かれました。そしてこの年、帝室林野局がその軌道を買い取り、漁川上流部に延長して盤尻森林軌道が誕生したのです。この森林軌道は、木材の搬出に威力を発揮しますが、ときには「命の保証はしない」という約束で非公式に人を乗せることもあったそうです。やがて一九五五年(昭和三〇)、トラック輸送に道をゆずり、盤尻森林軌道は撤去されました。

◆現在も残る森林軌道の跡
◆当時の森林軌道

◆大木の切り出しに使われたのこ
(恵庭市郷土資料館)
◆インクライン式の軌道

満州事変が勃発。
十五年戦争という長く暗い時代の始まり
 この年九月一八日、中国東北部の柳条湖付近で満州鉄道が爆破され、日本軍は、これを合図に一気に満州(中国東北部)侵略を開始します。これは満州の支配占領をたくらむ軍部の自作自演で、この年から太平洋戦争の終結まで、「十五年戦争」とよばれる長く暗い戦争の時代の幕開けとなりました。翌年には日本軍部が実権をにぎる「満州国」が誕生。日本は国際的に孤立を深めていきます。

 

冷害大凶作で北海道・東北飢える。恵庭で三〇〇戸以上が救済を求める
 第一次世界大戦後の不況で農村は次第に疲弊していきますが、そこに決定的なダメージを与えたのが、前年の世界恐慌による農産物価格の暴落と、この冷害大凶作でした。冷害による凶作と飢餓は、北海道・東北の北部を襲い、飢餓人口は四五万人(うち北海道二五万人)にのぼりました。農村では飢えや、娘の身売り、借金からの夜逃げが横行したといいます。

◆昭和6年の凶作を伝える記事(旧北海タイムス/昭和6年10月22日)

 本市でも約一,〇〇〇戸の農家のうち、半数以上が三分作に満たず、三三八戸が救済を必要とする状態でした。弁当を持参できず、空腹で体操中に倒れる子どもたちや、防寒具がなく学校に通えない子どもたちも少なくありませんでした。この惨状に、全国で救援運動が盛り上がり、多くの義捐金が寄せられますが、凶作はこの年で終わらず、昭和七年、九年、一〇年と冷害や水害が連続して襲います。
◆北海道の各地では欠食の児童が給食に殺到した(写真提供/北海道新聞社)

 この農村の惨状は、一方で二・二六事件など軍部右翼テロの背景となり、「満蒙開拓」(日本の農村から中国東北部に入植させる政策)に見られるように日本を中国侵略に加速させていきます。
 

1932年(昭和7年)
村内に巨大が現れ大騒ぎ。
しとめてみると二・五メートル
 この年漁川下流の南一九号のあたりに巨大なが現れ、村内は大パニックになりました。発見者は安達伝三郎。漁川の中州にうずくまるを、村民と猟師が遠巻きにするなか、千歳の釜加に住むアイヌ撃ち名人が現れ、見事にしとめます。そのときのがこの写真です。足から頭まで、なんと二・五mもあったそうです。

◆役場前で記念撮影する村民と


1934年(昭和9年)
『千歳・恵庭・広島三村名鑑録』が出版される。
恵庭の名士ずらり
 一九三三年(昭和八)皇太子(現在の今上天皇)誕生を記念して、恵庭村村会議員・北岡善作が編集・企画した『千歳・恵庭・広島三村名鑑録』が出版されました。これは三村の公共施設や神社・仏閣、名所旧跡、村の功労者などを集めた写真集で、当時の様子を知るたいへん貴重な記録です。開道五十年などを記念するかたちでこのような「名鑑録」を出すことが当時の流行でしたが、それは開拓がようやく定着し、自分の村をふりかえる余裕ができてきたことでもありました。

◆『千歳・恵庭・広島三村名鑑録

 それにしてもこの『三村名鑑録』の編集には相当な苦労があったようで、北岡善作の自序には「最初の写真師は約束を断って帰り、次の者は体力が続かず倒れ……私は、猛暑の山のなかを数十日も走り回り、体は臭い、衣服は破れ、頼みとした自転車もつぶれてしまった」(口語訳)と壮絶な取材の様子が書かれています。ついに扁桃炎で、ドクターストップがかかりますが、それをふり切り奔走しているうちに自然に治り、いわく「病ハ閑人ニ着クモノナリ」。なんともすさまじい執念で完成したこの『名鑑録』ですが、このおかげで私たちは、かつての恵庭の姿を知ることができるです。
 

恵庭鉱山、本格的な操業へ。
奥深い山中にまちが出現
 一九三一年(昭和六)漁川上流に皆川愛次郎の手で開鉱した金の鉱山は、この年から日本鉱業の手で本格的な探鉱が進められ、操業を開始。一九三九年(昭和一四)には青化精錬場を設置し、翌年から恵庭鉱山の名で大々的な採掘をおこなっています。このときの従業員は五四八人と大規模なもので、社宅や学校が作られ、山中にひとつのまちが誕生したかのようでした。

◆「産業遺跡」と化した恵庭鉱山跡(写真提供/地蔵慶護)

 また恵庭のもうひとつの金山・光龍鉱山は、すでに一九〇三年(明治三六)に豊国鉱山として開鉱していましたが、数年で休業。一九三六年(昭和一一)に堤林氏の手で新た坑道が掘られ、光龍鉱山の名がつけられました。光龍の名は、龍が滝をのぼる夢を見たことにちなんでいます。
◆光龍鉱山の金鉱石



 両鉱山とも一九四三年(昭和一八)に金鉱整備令によって休山し、山中の学校やまちは姿を消しました。光龍鉱山は、戦後操業を再開し、何度も採掘権が移転されながら現在は千葉県の野田玉川鉱発によって採掘が続けられています。
 

自作農を作れ!この年から林農場の解放始まる
 不在地主などによる北海道の大農場は、大正から昭和初期にかけていきづまりを見せ、一九二六年(昭和元)から地主側の働きかけによる「自作農創設事業」が始まります。これは小作農に国の資金を貸し付け、地主から土地を買わせる制度で、その背景には、大正デモクラーのなかで全国的に農民運動が盛り上がってきたこと、無肥料連作などで地力が衰え、生産が低迷してきたことなどがありました。大正末から昭和初年には、有名な磯野農場争議(小樽の海産物商磯野進が所有する富良野の農場で起きた小作争議で、小林多喜二『不在地主』のモデルとなった)など、北海道各地で小作争議が頻発し、大農場は一層矛盾を深めていきます。道庁は、一九三四(昭和九)から「自作農創設事業」を利用して小作農場の解放を進めさせますが、本市でもその方針を受け、林農場(開耕社農場)の解放を勧め、この年三八戸を自作化。一九四二年(昭和一七)までに総計一一二戸、翌々年までにさらに五七戸を自作農としています。

 

1936年(昭和11年)
昭和天皇の統監のもと、陸軍特別大演習。
村民総出で草刈り奉仕
 この年は、青年将校がクーデターを企てた二・二六事件で明け、二〇カ年で一〇〇万戸、五〇〇万人を中国東北部に移民させようという第二次満蒙開拓が決定した年でした。この年一〇月、「満蒙」でのソ連や中国を相手とした戦争を想定し、北海道で陸軍特別大演習がおこなわれます。五日間の大演習には、北海道の第七師団と東北地方の第八師団が参加。一〇月五日には島松演習場一帯での野戦演習がおこなわれ、昭和天皇は二翁台で演習を統監(全体を統括し、命令・監督すること)しています。

 この大演習に村民は、道路の補修や演習場の草刈り奉仕、兵士への接待など、総動員で協力しました。このわずか九カ月後、日本は中国での全面的な戦争へなだれこんでいきます。
◆島松で陸軍特別大演習を統監する昭和天皇

◆大演習を記念した聖蹟記念碑

◆大演習地図

村を赤い疾風がかける。
消防ポンプ自動車登場
 時速七〇kmの猛スピードで、赤い自動車が走りぬけます。必死にしがみつく消防組の面々。村に初めて登場した、消防ポンプ自動車の訓練風景です。この年、漁・茂漁地区有志の寄付金によって、村に初めてフォード社の消防ポンプ自動車が登場しました。

消防ポンプ自動車


1937年(昭和12年)
日中全面戦争に突入。
戦争気分にうかれる日本人
 この年七月七日、中国の北京郊外で盧溝橋事件が起こり、日中両軍が衝突。これをきっかけとして日本軍は華北に総攻撃を開始。日中は全面戦争に突入しました。一一月には上海を占領、一二月には南京を制圧と戦火は拡大を続け、南京では数万人とも二十万人以上ともいわれる中国民衆を虐殺します。

 多くの罪のない中国の人々が戦火に投げこまれる一方で、日本では千人針や慰問袋、神社参拝などがブームとなり、人々の戦争気分が盛り上がります。しかしやがて、多くの兵士が出征し帰らぬ人となるなかで、戦争が自分たち自身をも苦しめることに、人々はしだいに気づいていったのです。
◆出征の風景

ジャガイモ・トウモロコシはまかせろ。
北海道農事試験場試験地、島松に
 北海道の農業試験研究の機関としては、明治の初めに開拓使が七飯村に七重開墾場、札幌に札幌官園を聞いたのが始まりです。

 その後一九〇一年(明治三四)北海道農事試験場が設立され、寒冷地に適した農業の試験研究がおこなわれてきました。そしてこの年、農林省指定による「北海道農事試験場島松馬鈴薯・玉蜀黍(とうもろこし)試験地」が島松に設置されました。
北海道農業試験場島松馬鈴薯玉蜀黍試験地

 ここではジャガイモとトウモロコシ(昭和一七年に札幌へ移る)の試験栽培がおこなわれています。その後何度か組織は変わりますが、一九九七年(平成九)農水省北海道農業試験場ばれいしょ育種研究室(梅村芳樹室長)として六十年の歴史を閉じるまで、ジャカイモ研究の中心拠点として、新品種の開発などに取り組んできました。
 ちなみに閉庁の「最後の晩餐」には、ジャガイモ料理がふるまわれました。
 

1938年(昭和13年)
戦死者の村葬が始まり、この年「英霊」五柱。
お国のためという哀しみ
 戦前の日本は、徴兵制度によって、国民は兵役につく義務を持っていました。男子は学生を除いて満二十歳(一九四三年、満十九歳に引き下げ)になると徴兵検査を受け、甲種・乙種の合格者は現役兵と補充兵にふり分けられました。現役兵となった者には入営を命じる「現役兵證書(しょうしょ)」が送られ、補充兵となった予備役の人々には、戦時になると「召集令状」が届き、兵士として出征させられました。この「召集令状」が赤かったことから「赤紙」とよばれたわけです。恵庭村でも多くの村民が、この赤紙によって出征し、そして「名誉の戦死者」として戻ってきました。戦死者の家族にとって表向きは「お国のための名誉」でも、それはつらく哀しいことでした。そして、この年から戦死者の村葬が始まります。

◆戦没者の村葬

◆現役兵證書

国民総動員法が公布。
すべてが国家の統制に
 軍部は戦争を強力に押し進めるために、一方で「国民精神総動員運動」など戦争を支える国民の意識を盛り上げ、その一方で「国民総動員法」を公布し、物資や労働力などあらゆる分野を統制下に置く戦時経済体制を確立しようとしました。人とモノが、ただ戦争の遂行のために動かされ、国民の生活は後回しというこの体制は、しだいに国民に窮乏を強いていきます。日用品は配給制となり、企業整備によって店を閉めさせられる商店や中小企業も多く、恵庭村の商店も一九四一年(昭和一六)には三分の一が店を閉めなければなりませんでした。

 

1939年(昭和14年)
ナチス・ドイツ、ポーランドに侵攻。
第二次世界大戦勃発
 この年九月一日、ヒトラーのひきいるナチス・ドイツは突如国境線を越え、ポーランドに侵攻します。これに対しイギリス・フランスはドイツに宣戦を布告。ここに第二次世界大戦が勃発しました。翌一九四〇年(昭和一五)四月にはデンマーク・ノルウェー占領、五月オランダ・ベルギー占領、六月にはパリが陥落と、ドイツはヨーロッパの大半を手中に収めました。日本はドイツ・イタリアと三国同盟を締結し、中国戦線での戦争を有利に進めようとしますが、そのことでアメリカとの関係は悪化の一途をたどります。

 

1940年(昭和15年)
とんとんとんからりと隣組
紀元は二六〇〇年
 「♪とんとんとんからりと隣組~」で始まる「隣組」はこの年のヒットソング。内務省の「部落会町内会等整備要領」にもとづき、「隣組」が誕生したのがこの年です。隣組は近隣の一〇戸内外のグループで、防火・防空・防諜(スパイを摘発すること)などを緊密な人間関係でおこなわせようとしたもの。助け合いの組織になるとともに、戦争を支え、お互いを監視する組織にもなりました。今も利用される「回覧板」は、このときに全国に広められた制度です。恵庭村でもこの年、区制が廃止され、部落会・町内会が誕生し、隣組が作られています。

 また、この年が神武天皇即位からかぞえて二六〇〇年にあたるとして、全国で奉祝行事がくり広げられました。恵庭でも七月、島松演習場で「紀元二千六百年奉祝石狩管内青年学校大会」が開かれ、石狩管内の青年三、〇〇〇人が集まり、天皇への忠誠を誓っています。天皇を神として崇拝する考え方は、戦争を支える重要な思想でした。この年「紀元二六〇〇年」という歌もヒットしています。
◆村でおこなわれた紀元2600年記念造林


1941年(昭和16年)
大政翼賛会恵庭支部結成。
村は戦時一色に
 中国での戦争が泥沼化し、アメリカ・イギリスとの対立が決定的になるなかで、日本は国民総動員体制を作りあげていきます。前年の一九四〇年(昭和一五)、すべての労働組合を解散し「大日本産業報国会」が結成され、すべての政党を解散し「大政翼賛会」が結成されました。大政翼賛会は道府県市町村にいたるまで支部が作られますが、恵庭村にもこの年、村長を支部長に大政翼賛会恵庭村支部が結成。村はますます戦時一色になっていきます。また一九四四年(昭和一九)農民を支えた産業組合や農会も解散させられ「恵庭村農業会」に統合させられます。

◆翼賛選挙のPRが各地で行われた

日本軍、真珠湾を奇襲。
太平洋戦争始まる
 北海道のエトロフ島から出撃した日本軍は、一二月八日ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。アメリカ・イギリスの両国に宣戦を布告し、太平洋戦争が始まりました。日本軍はマレー半島・フィリピン・シンガポール・インドネシアと電撃的な侵攻を続け、日本は戦勝ムードに酔いしれます。しかしそれも長くは続きませんでした。

 

1943年(昭和18年)
柏木に陸軍北部軍教育隊
恵庭の駐とん部隊のさきがけ
 北部軍教育隊は、北部軍管区の下士官・幹部教育を目的に、柏木の現北恵庭駐とん地の場所に設置されました。戦争末期には三カ月の教育で見習い士官とする中隊長教育もおこなっています。北部軍教育隊は、基地のまち恵庭のさきがけともいえるものでしたが、敗戦とともに一九四五年(昭和二〇)八月三一日に解隊し、隊員の一部は島松演習地内の桜森に入植します。

◆北部軍教育隊の隊員たち


1945年(昭和20年)
おどろくべき数の死者と引きかえに日本敗戦。
ラジオの前でぼう然と
 最初は緒戦の勝利に酔っていた日本も、半年後にはこの戦争が無謀な暴走でしかなかったことに気づかされます。一九四二年(昭和一七)六月、連合艦隊はミッドウェー海戦で敗北、八月からのガダルカナル島戦で戦死・餓死・病死者約四万人を出します。一九四三年(昭和一八)には、アッツ島の北海道第七師団守備隊二,五〇〇名全滅。一九四四年(昭和一九)には、サイパン島で一般住民を含む死者約五万人、ビルマのインパール作戦で戦病死者約七万人、レイテ島守備隊約七万人が全滅。一九四五年(昭和二〇)、硫黄島の日本軍二万三,〇〇〇人全滅、沖縄戦で沖縄住民九万四,〇〇〇人を含む死者約一九万人。これらの累々たる死者のなかに恵庭から出征した人々がいたことはいうまでもありません。

 しかも戦争の犠牲者は、兵士だけでなく一般の住民におよびます。中国・アジアの各地では日本軍による虐殺があり、日本の民間人もアメリカ軍による無差別爆撃で、昭和二〇年三月の東京大空襲だけでも死者約八万四,〇〇〇人、八月の広島・長崎への原爆投下では死者約二二万人という犠牲者を出しています。七月一四日・一五日には北海道にも空襲があり、全道で一,九二五人が犠牲になりました。このとき恵庭は、攻撃はまぬがれましたが、上空をアメリカ軍の爆撃機B29が通過していったそうです。
 多くの血と引きかえに、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏。昭和二〇年八月一五日正午、終戦を伝える天皇の「玉音放送」がラジオから流れたのです。
玉音放送が流れたラジオ(恵庭市・及川利明さん宅)

玉音放送を聞く教育隊の兵士たち

大都市から農民に。
拓北農兵隊」、北ヘ
 太平洋戦争末期、戦災で家を失った都市の住民を、開拓農民として北海道に送り、罹災対策と食糧増産の戦力にしようという「拓北農兵隊」が募集されます。東京など各都市から集められた三,四一九戸が、この年北海道各地に入植しました。恵庭には、終戦直後の八月二三日、名古屋からの一〇戸が島松に到着。一〇月には東京から六戸が加わり、北島原野の開拓地に入植しました。全道的には、農業経験のない都市の市民の入植は悲惨で、受け入れ側の村民も冷たく、定着率は一〇%に満たなかったといわれています。しかし恵庭では食料などの支援に親身になって世話をする村民がおり、いまも四戸が恵庭に暮らしています。

(北海道新聞/昭和20年6月26日)

すべての農民を解放せよ!
GHQ農地改革を指令
 この年一二月、GHQ(連合国総司令部)は「農民解放に関する覚書」を指令、画期的な農地改革が始まりました。これは不在地主をはじめとした大土地所有を解体し、小作農の自作農化を図るもので、一九五〇年度(昭和二五)までに、恵庭村だけでも約一,七〇〇haの農地を買収し、七八六戸の農民に売り渡しています。これまで小作料の重圧に苦しんでいた多くの小作農民にとって、これは明るい戦後のスタートでした。

 


1946年(昭和21年)
戦後初の総選挙。
女たちの一票、国を動かす
 この年四月、戦後初の衆議院議員選挙がおこなわれました。この選挙は、婦人参政権のもとに初めておこなわれた選挙という歴史的な意昧を持っていました。晴れ着を着て誇らしげに投票所に向かう女性の姿が印象的で、このとき当選した女性代議士は三九人。北海道からも二人の女性議員が誕生しました。その一方で、とりわけ農村部では、選挙権はあるが投票は夫の意のままに、という現実もありました。しかし、ともかく女性たちは新しい一歩を記し、国を動かす力となったのです。

◆国会を埋めた最初の女性議員たち(写真提供/共同通信社)


1947年(昭和22年)
自由で平和な日本ヘ。
日本国憲法が施行
 この年五月三日、前年公布された日本国憲法が施行されました。この新しい憲法は、民主主義という基本理念のもと、国民主権・平和主義・基本的人権を柱とするもので、それまで君主だった天皇は国民の象徴となりました。昭和天皇はこの前年に「人間宣言」をし、各地を巡幸。昭和天皇の人柄は、廃墟から復興しようとする国民を力づけます。恵庭市が一〇〇歳となった一九九七年(平成九)は、ちょうど日本国憲法の五〇周年でもあります。

◆貴族院本会議場にて新憲法公布の式典(写真提供/共同通信社)

初めて村民が村長を選挙した。
戦後初の村長・村会議員選挙
 この年四月、地方自治体の首長選挙が、はじめて公選制でおこなわれます。北海道庁長官に日本社会党の田中敏文が選出されますが、恵庭村の選挙では立候補者三名に票が割れ、最終的に国司順一が初の公選村長に当選しました。同じ月、村会議員選挙もおこなわれ、二六名の村会議員も誕生しました。これらの投票に女性たちが参加したことはいうまでもありません。この月には参議院選挙・衆議院選挙・道会議員選挙もあり、選挙で明け、選挙で暮れた一カ月でした。五月には憲法と同時に「地方自治法」が施行され、北海道は史上初めて他の府県と同じ制度となります。

◆婦人たちの集い。戦中は愛国婦人会のたすきがけ。戦後、「民主政治と選挙」の講演に耳をかたむける

桜森入植者に米軍から立ち退き要求
 恵庭に教育隊を駐屯させていた陸軍北部軍は、終戦直後、島松演習場の一部を軍人・軍属の入植地として解放することを決め、約一〇〇戸が室蘭街道に近い演習地北側に集団で入植しました。彼らはそこを「桜森」と名づけ、この美しい名の入植地には、キリスト教会や学校も作られます。演習場内の仁翁台(におうだい)にも入植者が入りますが、この年、進駐軍は島松演習場からの入植者の退去を通告。翌年秋、人々は桜森・仁翁台を後にしました。

◆桜森に入植した青年たち

開村五十周年記念式典
 日本国憲法が施行されたこの年、恵庭村戸長役場設置からちょうど五十年となり、「開村五十周年記念式典」がおこなわれました。「漁外一箇村戸長役場」が誕生したのは一八九七年(明治三〇)。このときの憲法は「大日本帝国憲法」でした。恵庭の一〇〇年のまちづくりは、最初の五十年は旧憲法である「大日本帝国憲法」の下で、後半の五十年は新憲法としての「日本国憲法」の下でおこなわれてきたわけです。
 

1948年(昭和23年)
協同こそ力なり。恵庭に二つの農業協同組合ができる
 戦前の産業組合の伝統を受けつぎ、新しい時代の農業協同組合を作ろうという動きも活発になってきました。恵庭でも農協設立の準備が進められますが、畑作水田農家と酪農主体の農家で調整がつかず、一村二農協として「恵庭村農業協同組合」と「恵庭農業協同組合」が設立されることになります。この二つの農協は一九六三年(昭和三八)、合併し「恵庭村農業協同組合」として再スタートしました。

恵庭村協同組合の合併調印式


1949年(昭和24年)
大相撲初めて恵庭へ。
のちのヒーロー力道山は「や」
 かつて相撲は、神に奉納するものとして、お祭りには欠かせないものでした。恵庭でも戦前から草相撲が盛んにおこなわれ、その名をとどろかせた実(じつ)勇(いさみ)(鷲田仁作)をたたえた碑が盤尻に建てられています。戦後、まだ敗戦の混乱が残るなか、北海道新聞社が主催する「北海道準本場所」が道内五都市で開催されました。それに合わせ恵庭にも興業を呼ぼうと町議らが奔走し、「恵庭場所」巡業が実現しました。前日に恵庭入りした横綱前田山など一行約八十人は、民泊しながら翌日の取り組みにのぞみました。このときの関脇・力道山は、のちにプロレスのヒーローとして国民を熱狂させますが、残念ながら北海道巡業には参加しませんでした。

◆恵庭中学校土俵開きにて/昭和35年


1950年(昭和25年)
朝鮮戦争始まる。
日本は特需でうるおう
 第二次世界大戦が終結し、一見平和が訪れたかのように見えた世界で、ソ連とアメリカを対立軸とする東西冷戦が進行していきました。この前年に中国では中華人民共和国が成立し、アジア極東での緊張が高まるなか、朝鮮半島を南北に分ける三八度線で大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の両軍が衝突。アメリカ軍を中核とした国連軍と中国人民義勇軍の参戦で、第三次世界大戦への危機をはらみながら、翌年七月まで戦争は続きました。日本は朝鮮特需で好景気となり、戦後の発展の基礎をつくります。

◆「38度線突破」の立て札をわきに進撃する韓国軍(写真提供/共同通信社)

(北海道新聞/昭和25年6月26日)

柏木の旧教育隊あとに警察予備隊が駐とん。
自衛隊の前身
 朝鮮戦争によって、極東の情勢は一気に緊迫し、日本でも、再軍備への動きが加速します。そのためこの年「警察力を補完する治安部隊」という名目で七万五,〇〇〇人の警察予備隊が設立されます。これが現在の自衛隊の前身です。警察予備隊は、旧軍人を排除して設立することで、帝国軍隊の復活を避けようとしましたが、警察予備隊に対する世論は二分しました。

 村は旧教育隊跡地に警察予備隊を強力に誘致し、創設と同時に約三〇〇人の隊員が駐とんを始めました。これが現在の北恵庭駐とん地で、北海道初の駐とん地となりました。この警察予備隊と翌年の米軍オクラホマ部隊の駐留をかわきりに、恵庭は基地のまちとして知られるようになります。
警察予備隊北恵庭駐とん地のゲート


1951年(昭和26年)
村から町ヘ。
恵庭町が誕生
 戦後の混乱期が落ち着きを見せ始めたこの年、恵庭に町制が施行され、「恵庭村」は「恵庭町」となりました。一九五〇年(昭和二五)の国勢調査では世帯数二,三〇八戸、人口一万四,四五六人に達し、さらに警察予備隊の誘致にも成功するなど、まちは発展し続けていました。そこで村は村議会の決定にもとづき町制施行を求める申請をおこない、四月一日をもって恵庭町が誕生します。

◆町制施行時の漁町市街

オクラホマ・トルネード!
米州兵オクラホマ部隊がやってきた
 この年、アメリカ合衆国州兵第四五師団、通称オクラホマ部隊が千歳基地に駐留。一部の部隊が現在の駒場町と島松演習場に幕舎を張り、恵庭に駐留することになりました。本隊が駐留した千歳では「オクラホマブーム」とよばれるにぎわいになり、全国から米兵を相手とするサービス業者が集まり、一大歓楽地が出現したといいます。恵庭でも同様で、米兵相手の飲食店が林立し、歓楽街として栄恵町が生まれました。米州兵はアメリカ独立戦争の民兵に源流を持ち、平時は州知事のもとパートタイム制の予備軍ですが、戦時には連邦軍と同様に大統領の命令で戦う部隊です。彼らの恵庭への駐留は、それまで「鬼畜米英」と信じていたアメリカ兵とふれあい、アメリカの文化と直接出会うきっかけになりましたが、その一方で、売春や、米兵による犯罪、激しい演習による農業被害など、多くの問題も生じました。彼らがやってきたオクラホマ州は、トルネード(竜巻)発生率が合衆国一。まさにオクラホマ・トルネードの到来でした。

◆子供たちとクリスマスを楽しむ米州隊員(写真提供/千歳市)

◆当時アメリカ軍が使っていた「かんじき」(恵庭市郷土資料館)

教室が足りない!
すしづめ授業や二部授業
 戦後の学制改革によって現在の六・三制の義務教育が始まります。教育の内容もそれまでの「軍国主義教育」から「民主教育」へと大きく変化しました。新しい教育への親の関心は高く、恵庭小学校PTA婦人部では、札幌のアメリカンスクールの見学やGHQ民政部のモーリス嬢を招いて「アメリカの教育について」の講演会をおこなうなどしています。そして、このころから自衛隊の駐屯や戦後のベビーブームなどによって児童数が激増。各地で教室不足が深刻となり、町ではこの年から二部授業を始めました。当時の一クラスの児童数は、今では想像できない「混雑」ぶりだったようです。

◆当時の島松川上小学校学芸会


1952年(昭和27年)
誘致運動がみのり、恵庭につぎつぎと基地。
やがて「自衛隊のまち」とよばれる
 警察予備隊は、この年の七月に保安隊と名前を変えますが、恵庭では一二月に北海道地区補給処(現在の島松駐とん地)と南恵庭駐とん地の二つの基地があらたに設置されました。これらの基地の誘致は、町長・町議会あげての誘致運動や、地元住民による期成会の設立など、強力な誘致運動が実ったものでした。基地とともに多くの隊員が恵庭に来住し、これらの基地は、その後「自衛隊のまち」とよばれる恵庭の基礎となっていきます。

◆島松市街地を行進する保安隊/昭和27年11月

役場庁舎ついに移転。
満場一致で現在地へ
 長年の懸案だった役場庁舎の恵庭市街地への移転が、この年ついにおこなわれます。島松と漁の綱引きで中恵庭に村役場を設置して以来、移転問題は何度もそ上にのぼりますが、そのたびに住民感情の対立から先送りされてきました。

 しかし町政施行をきっかけに、ふたたび移転論議が再燃。町議会で慎重な審議が重ねられ、全会一致で現在地への移転が決まりました。そこにはかつては想像できないほどの市街地の発展や、人口の増加によるまちの変化があったのです。
◆いまの京町に新築移転した町役場庁舎


1953年(昭和28年)
弾丸よりも速く!「弾丸道路」が開通
 この年一一月、前年から工事が進められていた国道三六号札幌-恵庭-千歳間、三四・五キロの舗装が完成。通称「弾丸道路」と呼ばれるこの舗装道路は、北海道初の本格的舗装道路工事で、当時一般的だったコンクリート舗装ではなくアスファルトを使用するなど、多くの先進的技術を駆使したものでした。「弾丸道路」とよばれた理由は、この工事が米軍の強い要請によるもので、工事費八億七,〇〇〇万円は安全保障費を使ったためという説、工事が短期間に終わったためという説、米軍が弾薬を運んだためという説、などがあります。現在の車社会を見ている私たちには、弾のように速く車が走るから、といわれた方が説得力があるかもしれません。恵庭市内ではこのときに駒場-柏木間が現在のルートに切り替わり、この時から「旧国道」と呼ばれるようになります。

弾丸道路完成のアーチの下を走るトラックと荷車が対照的

◆空から見た弾丸道路(旧国道との分岐点)


1955年(昭和30年)
オネスト・ジョン発射!
町民の「演習反対」盛り上がらず
 当時アメリカ軍の最新兵器であるロケット砲「オネスト・ジョン」は、核弾頭が装備できるとあって、日本持ち込み以来、全国で反対運動が起きていました。そのオネスト・ジョンの発射訓練を島松演習場でおこなうと米軍が発表。田中北海道知事の反対表明などにもかかわらず、現地で阻止行動をおこなった議員や労組員の頭上をオネスト・ジョンは轟音をたてて飛び去りました。それに先だって恵庭小学校で「演習反対町民大会」が聞かれますが、集まった町民は二五〇人程度。町民の反対は盛り上がらないままでした。

(北海道新聞/昭和30年11月30日)


1956年(昭和31年)
準備に一年、第一回商工まつり。
恵庭音頭とミス恵庭
 商工会は、戦前の商業組合の伝統を受け継ぐものですが、恵庭町では一九五三年(昭和二八)、島松・恵庭の商工会を統合し恵庭町商工会が新たに発足しました。商工会の若手のなかから「人が集まる面白いことをしよう」と、一年間の準備をかけて、第一回商工まつりがおこなわれます。目玉は、「ミス恵庭」の美人投票と、郷土の音頭と踊りの新作発表でした。美人投票はこの年一回限りで終わり、郷土の音頭として発表された「恵庭音頭」は、恵庭の郷土芸能として定着していきました。

◆第一回商工まつりでミス恵庭のパレード


1957年(昭和32年)
文化のとりで、公民館新設される
 恵庭の公民館活動は、すでに一九五一年(昭和二六)に開始されていますが、地域が広いこともあり町内七地区の分館を拠点としたものでした。市民のさまざまな活動が活発になるにつれて、公民館本館の建設への要望が強まり、この年、講堂・会議室・図書室などを持つ公民館が完成します。この公民館は、後に市民文化祭の会場としても利用されるようになり、一九五九年(昭和三四)には全道公民館大会も恵庭で開かれました。一九七九年(昭和五四)の市民会館のオープンまで、公民館恵庭市民の文化のとりでとなります。

◆役場庁舎の横に新設された公民館


1961年(昭和36年)
森永乳業札幌工場が戸磯で操業を開始
 一九五〇年代末から日本の産業構造は大きく変化していきます。工業化が時代の象徴となるなかで、恵庭町も「柏木」と「戸磯・恵南」に二つの工業団地を作り、工場誘致を進めました。それに応じこの年、森永乳業が、誘致第一号の企業として戸磯で操業を開始します。酪農のまち恵庭にとって、乳業メーカーの操業は願ってもないものでした。森永乳業を皮切りに、地の利に恵まれた恵庭には工場の進出が続き、現在の工業団地群にいたっています。

 


1962年(昭和37年)
恵庭事件起きる。
憲法を問う事件に日本中が注目
 恵庭に基地を置いた保安隊は、一九五四年(昭和二九)防衛二法の公布により自衛隊となりますが、その成立時から自衛隊が、戦力を持たなそのいとした日本国憲法に反するかどうか、国論は二分していました。

 一方、島松演習場は戦後米軍に接収され、激しい演習訓練による荒廃で、島松川・ルルマップ川・柏木川・茂漁川の下流流域の田畑に大きな被害をもたらしました。演習場は一九五九年(昭和三四)日本に返還されますが、自衛隊の演習場として実弾射撃訓練などが日常的におこなわれます。この間、国は補償や防災処置をおこないますが、すべての町民を納得させるものではありませんでした。
 島松演習場に隣接する野崎牧場では、たび重なる被害に何度も抗議を続けてきましたが、この年一二月、野崎健美・美晴兄弟が自衛隊の胞撃訓練に抗議して、通信線を切断。自衛隊法違反で起訴されました。自衛隊という国論を二分している存在を相手に、国の政策と個人の権利が対立するというこの事件の性格は、もともと局地的な一事件に終わるはずがなく、裁判は自衛隊の違憲論争を争点に全国的な注目を集めます。四年間にわたった札幌地裁での裁判は結局憲法判断を避け、一九六七年(昭和四二)「通信線は自衛隊法でいう防衛用にあたらず、被告は無罪」という判決が出されました。その後恵庭事件は、憲法と自衛隊を考える教材として教科書でも取り上げられるようになりました。当事者にはつらく厳しい事件でしたが、日本という国の方向を多くの国民が考え、議論する手がかりになったことは間違いありません。
(北海道新聞/昭和42年3月29日)


1964年(昭和39年)
東京オリンピックの聖火リレーが恵庭を通過
 六〇年代という経済・社会の大きな変化の時代、それを象徴するのがこの年一〇月におこなわれた東京オリンピックでした。この年は、海外旅行が自由化され、東海道新幹線が開業した年でもあります。また三十代以上の人たちにはなつかしい『平凡パンチ』の創刊もこの年でした。そして恵庭では、他の道央地域市町村とともに新産業都市の指定地域となっています。

 成長と繁栄の時代を象徴するものとして、東京オリンピックはすべての国民に深い印象を残しました。九月には、全国を回る聖火リレーが国道三六号を走り、恵庭を通過します。多くの町民が平和と繁栄の新しい時代を感じながら、聖火を見送ったのでした。
恵庭町内を通過する東京オリンピックの聖火リレー


1970年(昭和45年)
市制施行となり、恵庭市誕生
 一九五一年(昭和二六)に町になってから約二〇年、恵庭は着実な発展をとげ、一九六九年(昭和四四)には世帯数約一万四〇〇戸、人口約三万三,五〇〇人を数えるにいたりました。町制施行の年(昭和二六)の世帯数が約二,四〇〇戸、人口約一万三,五〇〇人ですから、人口だけでも三倍近くに増えたわけです。さらに新産業都市指定にみられる道央圏の発展、千歳空港や道央自動車道計画など交通アクセスの高速化など、恵庭発展の条件は整っていました。町は市制施行の準備や陳情を進め、この年一一月一目、恵庭市が誕生。初代市長には町政をリードしてきた田中菊治町長が就任しました。

恵庭市制施行を喜ぶ市民のパレード


1971年(昭和46年)
ママさんバレー恵庭九鱗会、日本一に
 東京オリンピックで日本のバレーボールチームが「東洋の魔女」といわれ活躍したことから、バレーボールはブームとなり、会社員が昼休みに輸になってバレーボールに興じるという風景が日本中で見られるようになりました。当時人気を誇っていたのが主婦によるママさんバレーで、市内の自衛官の奥さんたちを中心とした「恵庭九鱗会」もそんなチームのひとつでした。この年の「家庭婦人バレーボール大会全国大会」で恵庭九鱗会は富山市市民球友クラブを下しC組で優勝。全国制覇をなしとげました。

◆日本一に輝いた恵庭九鱗会の試合

道央自動車道開通。
より速く、より便利に
 高速道路は、自動車が交通の主役になった時代のシンボルですが、北海道で最初の高速道路である道央自動車道、北広島―千歳間がこの年開通しました。これは函館―稚内を結ぶ北海道縦貫自動車道の一部で、恵庭インターチェンジの開業によって、交通アクセスはますます速く便利になりました。

 四半世紀たった一九九七年(平成九)現在、小樽・旭川・長万部まで路線は延び、交通の要衝としての恵庭の伝統は、今も健在です。
◆北海道縦貫自動車道開通のテープカット


1973年(昭和48年)
きみは「すずらん踊り」のルーツを知っているか
 恵庭に新しい郷土芸能を作りたい。そう考えた恵庭商工会の若手によって、高知の「よさこい踊り」をモデルにした「すずらん踊り」が完成しました。彼らは高知に飛んで「よさこい踊り」を研究し、振り付けには高知から指導者を招きました。そして、この年八月一一目、第一回の「恵庭すずらん踊り」が開催され、恵庭のまちをノリのいい「すずらん踊り」が埋めたのです。以来毎年八月、恵庭を代表するイベントになっていきました。「よさこい」をルーツに、といえば最近全道的に「よさこいソーラン」がブームですが、恵庭はその二〇年前。まさに北海道の「よさこいブーム」の先駆者でした。




1974年(昭和49年)
「谷間の百合」よ、いずこ。
島松演習場スズラン狩りが中止
 前年に市の花に制定されたスズランは、恵庭のどこにでも自生し、春を告げてくれました。とりわけ島松演習場スズラン狩りの名所で、この季節札幌方面から多くの人々が島松をめざし、スズラン狩りのために汽車の臨時停車場ができたといいます。しかし乱獲からしだいにスズランが減少し、絶滅の危機もあったため、この年から島松演習場スズラン狩りは中止され、資源保護が進められることになりました。

スズラン狩りをする少女


1977年(昭和52年)
柏木B遺跡発掘調査。
全国をおどろかす発見ぞくぞくと
 この年から相木の農地基盤整備事業にともなう柏木B遺跡の発掘調査が始まりました。調査が進むなかで、石棒などの副葬品を含む古代の墓が円形の堤のなかにまとめられた遺跡「環状土籬(かんじょうどり)」を発見。遺跡・遺物も広い範囲にわたっていることが判明し、貴重な遺跡として注目を集めます。発掘は当初予定していたものよりも期間・範囲を広げ、四年間にわたって続けられました。出土した貴重な遺物は、恵庭市郷土資料館で見ることができます。(4p参照)

◆上空から見た柏木B遺跡


1979年(昭和54年)
恵庭ニュータウン恵み野の開発始まる。
人間性豊かな都市計画
 生活と環境を考え「人間にとっての都市」を理念として、ニュータウン恵み野の宅地開発がこの年から始まります。近くを漁川が流れ、約一一万㎡の中央公園を中心にニュータウンを帯状に縦貫する公園を配置した「環境」の良さと、JR恵み野駅(昭和五七年開業)やショッピングセンター、公共施設など「生活」の便利さ、さらに地価の安さもあり人気が沸騰。初回の分譲は即時完売となるほどでした。当時は見渡すかぎりの田畑だった場所に、現在では約四,〇〇〇戸、一万三,〇〇〇人の市民が暮らすまちが誕生することになります。



 この恵み野の開発の母体となったのが一九七三年(昭和四八)の「恵庭市総合開発計画」です。この計画で現在の恵み野にあたる南島松地区が「大規模高級住宅団地」の候補となり、さらに道が策定した「道都圏整備基本計画」が開発の考え方の柱となっていきました。
 一九七五年(昭和五〇)、恵庭市恵庭市振興公社と民間四社で、当時あまり例のない第三セクター方式の「恵庭新都市開発公社」が誕生し、翌々年「恵庭市住宅団地基本計画」か策定。いよいよ恵み野の開発はスタートしたのです。
恵み野の新聞広告

市民会館できる。
市民手づくりのこけら落とし
 この年、一,〇〇〇人収容の大ホールをもつ市民会館ができ、こけら落としとして、市民の手づくり公演「飛橋(ひきょう)」が披露されました。「飛橋」は、大地・開拓・槌音・飛翔の四章で構成された恵庭の歴史と来来を象徴するドラマで、邦楽・舞踊・書道・吟・演劇・民謡・ダンス・音楽などのさまざまなジャンルをひとつの舞台にまとめあげたものでした。恵庭市文化協会が中心となって実現したこの公演には、スタッフを含め一,〇〇〇名以上の市民が出演。まさに「市民会館」のオープニンクを飾るにふさわしい、市民主体のイベントでした。

 
◆市民の手づくりで上演された「飛橋」


1980年(昭和55年)
漁川ダムが完成。恵庭の巨大な水がめ
 漁川の洪水対策として、また水温を高め冷害から作物を守る目的で計画された漁川ダムは、恵庭・千歳・江別・北広島の四市の水道用水としての利用を含めた多目的ダムとして、この年完成しました。このダムの完成で巨大なえにわ湖が誕生し、周辺の公園も含めて市民の憩いの場にもなっています。一九八二年(昭和五七)には、ダムの下に「桜公園」が作られ、三,〇〇〇人の市民が参加して桜の植樹がおこなわれています。

漁川ダム

漁川ダム公園のサクラ植樹


1984年(昭和59年)
恵庭岳太鼓」保存会できる。
またひとつ新しい郷土芸能
 恵庭ライオンズクラブ創立二十周年事業の一環として、恵庭市に太鼓九台が寄贈。それをきっかけに「恵庭岳太鼓振興保存会」(のちに恵庭岳太鼓保存会に変更)が結成されました。保存会は「白扇太鼓」「漁川激流太鼓」「恵庭岳四季打ち太鼓」など、恵庭にちなんだ曲目を創作し、その勇壮なリスムは恵庭の新しい郷土芸能として人気となり、現在にいたっています。

◆設立時にひろうされた恵庭岳太鼓

市民栄誉賞」第一号に、サラエボ五輪出場の小清水仁美さん
 ユーゴスラビア(当時)のサラエボでおこなわれた第一四回冬季オリンピックに、女子リュージュの選手として出場した小清水仁美さんが恵庭市第一号の市民栄誉賞を受賞します。当初十位以内が期待された小清水さんですが、結果は残念ながら十八位。しかしその氷上の走りは、市民に熱い思いを伝えてくれました。サラエボオリンピックは、開会にあたって、オリンピック期間中すべての国が戦争行為を中止するようにアピールをした、まさに「平和の祭典」でした。しかし、その後ユーゴスラビアは解体、内戦によって美しい古都サラエボは戦火に包まれ、オリンピックスタジアムには墓標が立ち並ぶことになります。

◆「市民栄誉賞」を受賞する小清水さん


1985年(昭和60年)
第二期恵庭市総合計画策定。
まちづくりプロジェクト発進!
 「活力とやすらぎのあるまち・恵庭」を理念に、第二期恵庭市総合計画の基本構想が、この年市議会で可決されました。この計画は、一九九五年度(平成七)までの十年間を期間とし、この基本構想にもとづく重要なプロジェクトとして、「恵庭ハイコンプレックスシティー構想」と「水と緑のやすらぎプラン」が策定されています。

 「恵庭ハイコンプレックスシティー構想」では、単に企業誘致をおこなうのではなく、産・学・官の一体的な整備をうたい、職・住・遊・学などの都市機能が高度に複合化した、快適で活力のあるまちづくりを、また「水と緑のやすらぎプラン」は、自然と共存するまちづくりを進めようというものです。この総合計画は、現在のまちづくりの基本となり、一九九六年度(平成八)からは第三期恵庭市総合計画へと引き継がれています。
◆発展する恵庭市

総合体育館完成し、スポーツ都市宣言
 この年恵庭市総合体育館が完成。市民スポーツの拠点として、活用されていきます。この体育館の完成に合わせ、スポーツを通した健康づくりまちづくりを進めようと、市議会で「スポーツ都市宣言」が採択されました。歴史的にもスポーツが盛んな恵庭らしい宣言でした。

恵庭市総合体育館


1987年(昭和62年)
恵庭市の人口五万人を越える。
一〇年一万人の法則
 恵庭市の戦後の人口は、一九四五年(昭和二〇)に一万人を越え、一九五五年(昭和三〇)に二万人、一九六四年(昭和三九)に三万人、一九七六(昭和五一)に四万人をそれぞれこえ、ほぼ十年ごとに一万人増加するという、着実で規則的な増え方をしてきました。五万人を突破したのがこの年ですから、四万人から約十年。「十年一万人の法則」が生きています。ところがこの法則が崩れるのがその後。六万人をこえたのが一九九三年(平成五)ですから、わずか六年で一万人増を達成しました。これは第二期総合計画にもとづく都市計画の着実な進展によるものです。

 第三期総合計画では、計画が終わる二〇〇五年(平成一七)の計画人口は八万人。将来人口一〇万人を目安としてまちづくりを進めています。
◆くす玉を割って五万人達成を祝う


1989年(昭和64年・平成元年)
昭和天皇逝去。時代は平成へ
 昭和一一年の陸軍大演習では「大元帥」として統監。本市ともゆかりが深く、戦後は「国民の象徴」として敬愛された昭和天皇は、この年一月七日逝去。明仁親王の即位で時代は平成へと変わりました。天皇の病状が悪化するなか、原爆投下で八万人の市民が犠牲となった長崎市の本島等市長が「天皇に戦争責任はあると思う」と市議会で答弁。それが問題とされ、右翼による本島市長の暗殺未遂事件まで起こされる異常な空気も生まれました。

(北海道新聞/昭和64年1月7日)

恵庭RBパーク事業開始。
職・住・遊・学の複合都市ヘ
 先端技術の種(シーズ)を持つ企業や個人を支援し、先端企業を育成することを主眼に、研究開発拠点地域を運営する「恵庭リサーチ・ビジネス・パーク(RBP)」が、この年事業を開始しました。これは一九八五年(昭和六〇)に恵庭市議会で決定した戦略プロジェクト「高度複合機能都市プロジェクト(恵庭ハイコンプレックスシティ構想)」にもとづくもの(→P62)。その構想の核として作られたのがRBPでした。四月には恵み野タウンセンター地区に建設された恵庭RBPセンタービルがオープン。札幌弦楽アンサンブルの記念コンサートが、RBPの船出を祝いました。

◆恵庭RBパークセンタービル

緑のふるさと森林公園オープン。
水と緑のまちづくり
 この年六月、えにわ湖南東に森林レクリエーション施設「緑のふるさと森林公園」がオープン。三〇〇人の市民が集まり、コンサートや記念植樹などを楽しみました。三七・八haの広大なエリアには「ふれあいの森」「よろこびの森」「いきがいの森」「いこいの森」の四つの森が作られ、野鳥観察小屋などさまざまな施設が設置されました。えにわ湖周辺に、市民のもうひとつのいこいの場が誕生したわけです。

◆緑のふるさと森林公園

サッポロビール北海道工場完成。
「えにわビールにしろ」との声も
 サッポロビールは、この年、札幌工場第一製造所(現サッポロファクトリー)を恵庭市戸磯の工業団地に移転。サッポロビール北海道工場としてオープンしました。恵庭への移転は、なにより恵庭の豊富な水がビールの原料としてすぐれていたこと、交通条件がめぐまれていたことなどがありました。当初は、札幌第二製造所も含めてすべての工場を一括して恵庭に移転させる計画でしたが、札幌市の地元の反対が大きく、「恵庭に行くなら、えにわビールにしろ」との声も上がったそうです。約一一万坪の敷地に三七〇億円の工費で完成した最新鋭の工場は、年間一二万klの製造能力を誇っています。また「地域に聞かれた工場」をめざし、出入りが自由な敷地内の美しい庭園は、一九九一年(平成三)(財)日本緑化センター会長賞、一九九四年(平成六)には「花のまちづくりコンクール」企業部門で農林水産大臣賞を受賞しました。

◆サッポロビール北海道工場

はまなす国体、初の恵庭会場で
 この年九月一七日から二二日まで、第四四回国民体育大会秋季大会「はまなす国体」が全道を会場におこなわれ、恵庭では初の国体開催となりました。恵庭市でおこなわれた競技は、バスケットボール(少年女子)と軟式野球(成年二部)。恵庭市での競技開始式ではすすらん踊りやつくし幼児園園児によるマーチングバンドの演奏などもおこなわれ、会場を盛り上げました。

◆恵庭会場での国体競技


1990年(平成2年)
ふるさとの歩みを一堂に、恵庭市郷土資料館が開館
 開拓記念公園に隣接して、恵庭の自然や歴史資料を集めた恵庭市郷土資料館がオープンしました。資料館には常設展示室や体験学習室などが作られ、郷土についての学習の拠点としての役割を果たします。常設展示では、柏木B遺跡環状土籬模型や北海道式古墳の模型、森林軌道のインクラインのジオラマなど、恵庭独特の歴史資料も展示。縄文土器の作成や昔の農具の体験など、さまざまな体験学習もおこなわれています。

恵庭市郷土資料館


1991年(平成3年)
恵み野学校六年四組の子どもたちが『漁川物語』を製作
 市立恵み野学校の六年四組(一九九一年度卒業)の生徒たちが、漁川にまつわる歴史や自然を物語にまとめ、一冊の文集として出版しました。製作は六年四組の全員で作っている「漁川保護少年団」。自分たちの遊び場になっている漁川をもっとよく知ろうと、古老の昔話を聞いたり、取材して資料を集めてまとめ、約四十点のさし絵も自分たちの手づくり版画を使っています。物語は、恵庭の鳥にもなっているカワセミの目から、漁川の移ろいを見めたもの。開発による人間のくらしの豊かさと自然の破壊という矛盾にも目を向けた、すばらしい作品でした。



花のまちづくり。
恵み野で第一回フラワーガーデンコンテスト始まる
 恵み野西商店会の主催で、この年第一回フラワーガーデンコンテストがおこなわれました。ニュージーランドのクライストチャーチでおこなわれているガーデンコンテストを手本に、花で彩られた美しいまちを作ろうというこのコンテストは、しだいに広がりを見せ、一九九四年(平成六)から恵み野西商店会と恵み野花づくり愛好会の二団体の共催として現在にいたっています。このフラワーガーデンコンテストは、行政主導の花づくり運動と異なり、市民が主体的におこなってきた活動として評価が高く、一九九五年(平成七)恵み野花づくり愛好会は「花のまちづくりコンクール」団体部門で最高賞の建設大臣賞を受賞しています。

◆フラワーガーデンコンテストをきっかけに広がりを見せる庭づくり


1992年(平成4年)
市民参加でアイデア 恵庭市立図書館オープン
 この年七月、恵庭市立図書館が開館しました。五万冊の蔵書をそろえ、自然採光をふんだんに取り入れた閲覧室からは、芝生広場や日本庭園がのぞめ、落ち着いた雰囲気で読書が楽しめます。

 AVコーナー、子ども向けのおはなしのへや、朗読サービスをする対面朗読室、点訳本・声の本を製作するボランティア活動室などを完備。図書館を拠点に、市民によるさまざまな文化活動もおこなわれるようになりました。この図書館建設の特徴は、事前に市民参加のシンポジウムをおこない、障害者の利用にも配慮するなど、市民参加でアイデアを出しあい建設が進められたことです。そのような市民主体の図書館づくりが評価され、一九九四年(平成六) 、日本図書館協会建築賞を受賞しています。
 
恵庭市立図書館


1993年(平成5年)
ふるさとは時の流れをこえて…市民野外劇「エ・エン・イワ」上演
 恵庭初の市民野外劇「エ・エン・イワ……ふるさとは時の流れを越えて」が、恵み野中央公園野外音楽堂でおこなわれ、集まった二,〇〇〇人の観客は、ふるさとの歴史を描いた幻想的なドラマに酔いました。この野外劇は、恵庭岳を意味するエ・エン・イワの「伝説の火祭り」の真実を確かめようとする創作劇で、シナリオや出演はもちろんのこと、舞台装置・音楽・衣装などすべてを市民の手づくりでおこなったもの。参加スタッフは二五一人にのぼり、市民が自らの手で恵庭の文化を育て、発信しようという強い意気込みが感じられるものでした。

◆市民野外劇「エ・エン・イワ」。出演者・観客・スタッフがひとつになった夜

冷害で大凶作
スーパーから米が消えた
 この年、低温と日照不足が続き、未曾有の冷害凶作となりました。この年一〇月に石狩支庁がまとめた農作物被害調査によると、石狩管内だけでも水稲の平均収穫高は平年の二八%。恵庭市の水稲被害面積一,七五〇ha。水稲被害額一五億九,一〇〇万円。畑作被害面積五六〇haにおよびました。翌年には米不足が深刻となり、スーパーから米が消え、緊急輸入による中国産米やインディカ米がスーパーの店頭にも並びました。またニセブランドのササニシキやコシヒカリのヤミ米が法外な値で出回るなどの社会現象も起きました。それまで食と農の問題に無関心だった都市の住民に、この凶作は大きな警告となりました。

(北海道新聞/平成5年10月1日)


1994年(平成6年)
「広報えにわ」創刊五〇〇号に
 「広報えにわ」の創刊は、一九五〇年(昭和二五)五月。費用は村民の寄付で、タブロイド版表裏二ページの「新聞」が発行されました。題字はローマ字で「ENIWA」のロゴがデザインされています。この創刊号は残念ながら残っていませんが、現在残る最も古い一九五二年(昭和二七)五月・六月合併号(第二三号)が当時の雰囲気を伝えてくれています。戦後、自治体が広報を発行することはGHQの指導によるものでした。その「広報えにわ」が、創刊から五〇〇号を迎えたのが一九九四年(平成六)三月号。一九八〇年代を境に、「お知らせ型」から「問題提起型」へ広報の編集方針も大きく変わり、市民に問題を投げかけ、市民と一緒に考える広報誌づくりがおこなわれています。




1995年(平成7年)
阪神大震災で悲惨な被害。
しかし市民は手を取り合う
 この年一月一七日未明、淡路島北部を震源とする直下型地震が神戸市を中心とする阪神地区を襲い、死者五,五〇二名、倒壊・焼失家屋約二〇万戸を数える、戦後最大の大災害となりました。水や電気道路など生活に不可欠なラインが寸断され、大都市災害の恐ろしさを見せつけました。

(北海道新聞/平成7年1月17日)

 痛ましい災害ではありましたが、パニックにならず助け合う被災市民の冷静な対応は世界から賞賛されました。戦後五十年、関東大震災における朝鮮人虐殺と比較しても、戦後民主主義と人権意識が市民のなかに根づいたことを身をもって証明してくれたのです。
 また、これまでは災害時に義援金や物資を送る活動がほとんどでしたが、阪神大震災では全国からボランティアが集まり、そのような市民活動が震災後の生活や復興に大きな役割を果たしました。全国の市民にとってボランティアが鮮明に位置づけられたという意味で、この年はボランティア元年ともよばれています。
 恵庭市では前年の一九九四年(平成六)「恵庭市防災計画」を策定しましたが、阪神大震災の経験を踏まえて見直しを進める一方、市民への防災情報の徹底や、職員の非常召集訓練なども行っています。
 

「知る権利」への第一歩、情報公開制度がスタート
 この年「恵庭市情報公開条例」が施行され、市の情報公開制度がスタートしました。この制度の背景には、市民のなかに「知る権利」への意識が全国的に高まってきたことや、当時ゼネコンとよばれる大手建設業者のヤミ献金が問題となり、各地で知事・市町村長の逮捕が相次いだことが背景にありました。本市においても同様の事件が発生し、市政への不信を招くことになりました。そこで市は、二度とこのような事件を起こさない決意のもと、市民自治の根本に立ち返り、市民に開かれた市政をとりもどす一歩として、情報公開制度の整備に着手したわけです。この条例により、市民の市政に対する知る権利を保障するため、市の発行文書などを自由に閲覧できる「情報公開コーナー」が設けられています。

情報公開コーナーが開設

半透明ごみ袋を指定。ごみには市民の責任が
 本市におけるごみ処理は、初期には回収・埋め立て処分をおこなっていましたが、一九七九年(昭和五四) に初のごみ焼却施設が島松沢地区にでき、「燃えるごみ」と「燃やせないごみ」の分別収集が始まりました。その後盤尻地区に組大ごみ処理施設と最終処分場が作られ、一貫したごみ処理の体制ができました。しかし社会の変化と人口の増加に伴い、ごみの量は激増しており、現在新たに環境保全型のごみ処理の考え方が問われています。

◆ごみ焼却場

 この年一〇月から、ごみ袋が市の指定する半透明のものに統一されることになりました。袋の中身が見えることで分別収集を徹底し、安全に収集できるようにする目的からです。環境問題にとってきわめて重要なごみ問題は、個々の市民が分別を徹底し、ごみの減量と資源化を進めることがカギとなります。しかし全国的に見れば、いいかげんなごみ出しが原因の爆発によって作業員がケガをする事故が頻発しました。市民がごみ問題で自分の責任を自覚しなければ、環境破壊やごみ処理費の増大など、結局は自分自身の首をしめる結果となってしまいます。この指定ごみ袋制度は、その解決へのひとつの工夫でもあるのです。
◆半透明ごみ袋で安全な収集


1996年(平成8年)
快適な交通環境を守れ!恵庭バイパス全面開通
 一〇月二九日、一九八七年に着工した国道三六号恵庭バイパス、北柏木-恵南間約八・二キロが全線開通しました。市の中心部を走る国道三六号の交通量増大にともなう交通環境の悪化に対し、恵庭バイパスが計画され工事が始められました。このバイパスの完成で、市内中心部の混雑は緩和され、騒音排ガス等の道路環境の向上に役立ちそうです。また工業団地の中を横切るため物流にも最適で、企業進出の促進にも効果が期待されています。

◆9年間の工事の末、ついに完成した恵庭バイパス

ストップ・ザ食中毒。O-157対策本部設置
 この年、大阪府堺市で学校給食を原因とする病原性大腸菌O-157集団食中毒事件が発生。その後O-157による食中毒は全国に広がり、大きな社会問題になりました。恵庭市では、給食関係者を対象に実施している検便の検査項目に、O-157を追加するなど、感染防止策を強めていました。

 そのようななか千歳市内にある病院で、市内在住者の感染が判明。恵庭市でも、感染防止策を強め、O-157対策本部を設置し、保健センターに住民相談窓口を置くなどの感染防止対策を決めました。
◆給食の前、子どもたちは入念に手洗い

恵庭の「希望の未来」をデザイン。
第三期恵庭市総合計画
 一九九六年度(平成八)から恵庭の二一世紀をデザインする「第三期恵庭市総合計画」がスタートしました。この計画がイメージする恵庭は「水と緑あふれる複合機能都市」。将来的には一〇万人都市をめざしています。そのシンボルといえるものが二つの戦略プロジェクトです。ひとつは、田園都市をめざす「恵みの庭プロジェクト」。自然と共生する、美しくやすらぎのあるまちづくりを進めるもので、自然との調和、美しい景観、都市と農村の共存などのテーマでプロジェクトが展開されています。もうひとつは高度複合機能都市をめざす「恵庭ハイコンプレックスシティ構想」。恵庭RBP事業の推進、西島松地区複合都市開発の推進、研究学園機能の拡充、都心部の再生など戦略的な都市開発が進められています。計画期間は二〇〇五年度(平成一七)まで。恵庭二世紀が始まろうとしているいま、恵庭は希望の未来へスタートします。

◆第3期 恵庭市総合計画




1997年(平成9年)
一〇〇。一〇一・・・