鳴川面の下位に鱒川面がある。鱒川面はその分布状態からみると河岸段丘として形成されたものと思われる。鱒川面の下には赤川段丘があり、これは鈴蘭丘面と中野町面に細分される。鈴蘭丘面は比較的安定した時代であり、その堆積物は背面では薄く、前面では泥炭や褐鉄鉱を伴う所からみて、潟湖あるいは湿地のような環境下に形成されたものと思われる。
中野町面堆積物は場所により変化があり、段丘礫層を主とする所、礫層と砂層より成る所、礫層・シルト層・粘土層より成る所などの差が見られるが、いずれの場合も礫の円型度が高く、礫→シルト→粘土の堆積相を示す所があるということは、一部は少なくとも海進の過程において堆積したことを示している。これを中野町海進と呼ぶこととする。
中野町海進に続いて海退があり、これによって中野町面の前面の崖が造られ、次いで日吉町海進により日吉町段丘が形成された。日吉町海進は関東地方の下末吉海進に相当するが、これは松倉川河口付近の同段丘礫層中に、基盤岩に由来した穿孔貝の跡を残す礫が包含されることや、国鉄五稜郭操車場北の同段丘堆積物の層相により裏付けられる。
日吉町海進の後に再び海退があり、次の海進によって函館段丘が形成された。これは浸食段丘である。海退がこれに続いた。
後氷期に入り、気候温暖化に伴う縄文海進があり、これによって再び古函館湾が形成され、その後の海退により沖積段丘が形成されたのであるが、縄文海進後海退の過程において海抜1.3メートル余の高さに海面の一時的停滞があった。
古函館湾は各河川によって運ばれた土砂等により埋められて縮少していき、これに代って函館平野が形成された。函館平野(盆地)を形成した地盤運動の軸は、初め東側にあり、次いで西側に移り、造盆地運動は現在もなお継続している。
以上の結果を表にすると次のようになる。(mは標高)
[地層図1]