日本における気象観測の歴史は新しいが、西欧諸国では、すでに、16世紀ないし17世紀あたりから組織的な気象観測が行われていたといわれている。これらの諸国は、海外に進出するに際して、気象の知識とそのもとになる気象観測を不可欠なものとして考えていたようである。
日本では長年にわたる鎖国政策のため、西欧の文明から遠ざかっていたが、安政元(1854)年の神奈川条約によって、下田、箱館に外国船の入港が許されて以来、国内でも次々に気象観測が始められるようになった。
つまり、これらの外国の使節が日本に駐在するとともに、船員、医師、宣教師、商人なども来日し、断続的にではあるが気象観測が行われるようになったようである。
これらの背景のもとに、函館では気象観測がかなり早くからはじめられ、日本における草分け的な役割を果したものと思われている。
安政元年ペリー艦隊が函館に寄港した際の模様を伝える『ペルリ提督日本遠征記』の第1巻に「箱館の冬と春の気候は下田よりも寒く、もやがしばしばかかり、かつ、濃いものが多い。五月十八日から六月三日までの間に寒暖計は五一 °Fから六六 °Fの間を上下し……」と記されているが、これが函館の気候を海外に紹介した最初のものであろうとされている。
これに次いでロシア人の医師アルブレヒトが安政6(1859)年から万延元(1860)年の2年間、函館付近の自宅で気象観測を行ったことが記録に残っていて、これが気象観測測器によって継続的に気象の実測を行った日本最初のものであろうという説があった。しかし、これについてはほかの文献で、すでに幕府の江戸天文台において天保6(1835)年から毎日1回の定時の観測を行っていたという事実が明らかとなり、安政2(1855)年から安政5(1858)年に、那覇ではフレー師(国籍不明)、長崎ではポンペ(蘭医)が気象観測を行っていたということがわかり、前説はやや影の薄れた感じが出てきた。
その後の調査でアルブレヒトに先んずること5年前の安政元(1854)年から安政5(1858)年までの間、幕府直轄の箱館奉行所で風向、風力、天気、気温、地震、雷などの気象要素の定時観測(朝夕2回)が行われていたことが、箱館奉行『村垣淡路守公務日記』(全17巻)の中に丹念に記載されていることが明らかになり、これが公式の機関で行われた函館における最初の気象観測であろうというのが定説となった。
アルブレヒトの観測のあと、文久元(1861)年から3年間は空白となっているが、そのあと、たまたま対清、対露の貿易に従事したイギリス人トーマス・ライト・ブラキストンが、文久3(1863)年の初夏、開港後間もない箱館に来住して、元治元(1864)年から明治4(1871)年までの8年間は雨雪日数を、慶応4(1868)年から明治4年までの4年間は、気温、気圧を観測したことが記録に残されていて、これが本邦最古の函館測候所に引継がれて今日に至っているのである。
これら初期の貴重な観測の成果は万延元(1860)年12月、アメリカ伝道医へボンが函館から本国にあてた書簡『ヘボンの箱館だより』の中に、「私は二年間当地に滞在したが、その間、ロシア領事館に関係のある医師から得た一、二の箱館の気候を語ろう……」として、アルブレヒトの観測をもとにした平均気温、最高気温、最低気温、降水日数が記録されている。
また、明治4年アメリカから招へいした開拓使顧問団長ケプロンは、明治5年に、函館におけるブラキストンの気象観測をもとにして四季の平均気温を求め、これをアメリカ北東部の各州と比較して、「北海道はアメリカのこの緯度の地方と同じ位の気候であり、積雪は多いがそれはむしろ土地の保温に役立っている。」と述べ、結論として、「北海道は米作には不適だが、ムギ、トウモロコシを中心にすればアメリカ北東部と同程度の開拓は可能である」とし、「さらに気象観測を積みかさねる必要がある」と、その気象観測の重要性を強調している。
更に、明治10年には、安政6年のアルブレヒトの観測から明治9年までの18年間のうち、欠測期間を除いた11年間の平均をもとにした気候表が、開拓使函館支庁により印刷発行されていた。