湯川遺跡の土師器(市立函館博物館蔵)
由仁町岩内遺跡の住居跡(野村崇「由仁町の先史時代」より)
北海道で末期古墳の時代に相当する遺跡が所在するのは函館市、空知郡栗沢町・由仁町、江別市坊主山、千歳市ウサクマイである。函館市内では湯川遺跡・汐泊遺跡・銭亀沢遺跡の3か所が確認され、このうち発掘調査を行ったのは湯川遺跡である。函館競馬場の裏手にあたる南東部で住居址が発見され、隅丸方形の竪穴住居が3戸発掘された。大きさは直径5メートルほどで、粘土層を30センチメートル掘り込んでいる。南側中央の壁に近く石組の窯が設けられ、煙出しの煙道が住居の外に作られている。床面は平坦で堅く、住居内の四隅に屋根を支える柱の跡があった。出土品は甕、鉢、坏形土師器と土製紡錘車で、年代は8世紀の初めと考えられる。この遺跡は競馬場の敷地内に続いており、集落全体の戸数はまだわかっていない。土師器で北大式の要素を持った土器が出土した汐泊遺跡は、汐泊川西側の段丘上にあるが、坏には沈線状の段があり、年代的には湯川遺跡に近いものである。汐泊遺跡の南西に銭亀沢遺跡がある。この遺跡は馬場脩が調査しているが、旧銭亀小学校の北側の沢に近く住居址が残っている。出土した土器は東北地方の第1型式で、湯川・汐泊遺跡とほば同年代と思われる。
栗沢町由良遺跡、由仁町岩内遺跡の土師器は湯川遺跡のものと同じ第1型式であるが、整形や調整痕に違いが認められ、時間差がある。由良遺跡からは北海道では珍らしい甑(こしき)が出土している。これは米など穀類を炊飯した土師器で、関東地方では5世紀の中ごろから使用されるが、この甑の出土によって、稲作など農耕文化が入ってきたか、穀物を移入したか、いずれかによって北海道においても甑が使用されていたことがわかった。
古代の函館は、北海道で最も早く東北地方の末期古墳を築造した文化をもつ人たちが定住したところであろう。湯川遺跡の土師器は東北の土師器に比べて粗雑であるが、移入されたものでなく、移住者が作ったものであり、土製紡錘車によって糸を紡ぎ、織物も作っていた。しかし、このころの調査が進んでおらず、まだ、末期古墳も発見されていないので、当時の社会や集落について明らかでない。渡島蝦夷との交流は遺跡によって明らかである。函館にはそれ以降、歴史時代の遺跡は室町時代まで見ることができないが、平安時代後半の遺跡は上磯町久根別にある。久根別川口に近い上久根別遺跡である。この遺跡からはロクロによる糸切底の土師器と須恵器、擦文土器の古い形式が出土している。