志海苔館跡の遠景(西側から見たところ)
昭和9年8月に国指定の史跡になった志海苔館跡は、函館における中世の遺跡で現存する代表的なものである。
志海苔館と同時期に存在した箱館は、河野加賀右衛門尉政通、河野弥次郎右衛門尉季通の父子2代が館主で、長禄元(1457)年と永正9(1512)年の蝦夷との戦いで滅び、正確な位置、規模、構築年代が明らかでないが、『函館沿革史』-明治32年-に、図と図解があり、館には土塁、空濠が巡らされ、本丸、二ノ丸などに分かれ、「東西三十五間、南北二十八間」と書かれている。これは参考にとどめなくてはならないが、館の場所は現在市立函館病院のあたりと考えられている。
志海苔館跡は、函館市志海苔町に所在し、土塁、空濠、井戸跡が残っている。『新羅之記録』や、『福山秘府』に、「箱館と共に長禄元年・永正9年の蝦夷蜂起によって滅び、初代の館主小林太郎左衛門尉良景、後にその息男の小林弥太郎良定が継ぎ、永正9年4月には與倉前の館主小林二郎季景も戦死した」旨が記されているが、これらの記録には館の名称は「志濃里」と書かれている。「しのり」の地名は、「志濃里」、「志苔」、「志海苔」と表わされるが、現町名には「志海苔」が用いられている。
志海苔館跡の構造は、道南にある諸館の山城と異なって、海岸に発達する標高20ないし30メートルの平坦な段丘上にある。西に志海苔川が流れ、南は海岸で、比高20メートルに土塁と空濠を巡らしている。海岸は明治初年に現在の海岸線より100メートルほど沖まで砂浜が伸びていたので、築造当時と現在とではかなり状況が違っていると考えなければならない。館は段丘の南側先端部に築かれていて、主体となる土塁は長方形で、高さ4ないし5メートル、幅15ないし20メートルであり、西側の中央に幅4メートルほどの出入口があって空濠に通じている。土塁に囲まれた平坦部は東西70メートル、南北50メートルで、東北隅に井戸跡もある。西側の空濠は幅約10メートル、深さは2、3メートルであるが、当時からみるとかなり埋まっているであろう。濠は北側にもあるが、東側と南側は急勾配の傾斜地となっている。正式な調査はまだ行われていないが、東側と北側に低い土塁跡もあるので、館と領域に関する遺構が発見される可能性がある。出土品は須恵質の大甕破片で窯印のあるもの、北宋の青磁など陶器があり、周辺からは武器などの出土がなく、戦闘は館以外の場所で行われていたかも知れない。現在残っている館跡は長禄元年から永正9年までの間に改築されていることも考えられる。
志海苔館が平城(ひらじろ)の形態をもつ居館で、道南の他の諸館とは異なるが、これは経済・社会の中心的役割を果たしていたことを示すものであろうか。現在わずかな出土品ではあるが、陶磁器から日本海の交通路による交流も考えられ、七重浜出土の珠洲窯の壷、最近における弥生町出土の室町時代中期の越前の擂鉢、志海苔古銭の甕は流通経路を示している。