こうして
昆布の採取季節になると、
箱館や亀田の住民ばかりでなく、福山や江差地方の漁民も多く出稼ぎして盛んに採取したが、松前藩ではこれに対し、次のように
昆布税を課した。
一 昆布 |
右東郷亀田村志野利(しのり)浜と云う所より、東蝦夷地内浦嶽(駒ヶ岳)前浜まで、海辺二十里余の所にて取申し候。尤も献上昆布は志野利浜宇加と申す所の海取分能(よき)ゆへ取申し候由 |
収納 |
亀田村 十三駄 内半駄献上の赤昆布也。 |
但し一駄と申すは長さ三尺の昆布五十杖抱四把なり、昆布数四百枚なり。古は二十五駄宛納め申し候得ども、松前まで船積にて収納申し候ては、人夫多くかかり申し候故、近年願い元昆布と申す能昆布ばかりを村納に仕るよし。二十五駄納の時は切昆布と申し、元昆布の能を取り末の薄きあしき所にて外より多く赤昆布納め申す候事は、昆布出所ゆへに多く納め申し候由。 |
西在郷並松前近辺より亀田浜其外へ船一艘二艘或は家役え仕る者 収納 |
家役 二十五駄 外に五十枚献上の赤昆布なり。 |
船役 一艘分五駄 外に五十杖献上の赤昆布なり。(『松前蝦夷記』) |
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また、元禄4(1691)年松前藩主から
亀田奉行に達した覚書によると、
昆布取場へ他国の船が来たときは、その船を留め置き状況を知らせること、また、
昆布季節より早く新
昆布の商売をしてはならないことを記しているが、これは他国船の密採取もしくは密売買を防ぎ、未熟の
昆布を売買して声価を落すようなことを防ぐためであったという。
赤昆布は、一名天下
昆布ともいい、幕府にも献上した最良品で、この
昆布と普通の
昆布の区別について『
松前蝦夷記』は次のようにしるしている。
赤昆布は生の内より色違い、紅(べに)うこんの如くにて、両脇みみ笹葉色の如く青く、赤と青の間、本より末まで黄色なる細筋通り申す由。之を吟味いたし献上昆布に仕立申す由。右納め松前にて一枚づつ相改め、後仕上げを致し、献上の昆布に相定め申す由。本赤昆布と申すは右の如く常の青昆布の内千枚に一枚も他目なきものにて候由。青昆布は沢山、是も本末段々分け申す由、本の能所は赤昆布の如く、知らざるものは是も本赤昆布と存じ、尤も常の商売の赤昆布丈を用い申すよし。切りと申すは本のよき所を取り末の薄き所を伐り申す由。 |