幕府の蝦夷地調査

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 幕府では、ロシア人の北方諸島進出の確認、たび重なる蝦夷地近海の外国船の出没や、あるいは国後目梨アイヌ騒動など、まさに物情騒然たるなかにあって、もはやこれをこのまま看過することはできなかった。そこで寛政10年(1798)年、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方らに命じて、蝦夷地の警備ならびに経営についての本格的な調査に乗り出したのである。
 一行は5月福山に到着すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊として配下の近藤重蔵最上徳内を案内として国後択捉までを踏査し、三橋成方は西蝦夷地を巡視して宗谷に至り、帰途天塩川をさかのぼって石狩川上流に出て、内陸の状況を視察しながらこの川を下り千歳越えで帰った。かくて再び江戸に帰って復命したのは11月半ばであった。
 閣老らはこの復命に基づいて評議の結果、ついに蝦夷地の経営を幕府みずからの手で行うことに決定したのである。