貿易開始の準備

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  安政2(1855)年の箱館開港は、薪水、食料品供給のための開港であって、本格的な貿易のための開港ではなかったので、外国人との交易行為そのものは、むしろ禁止する方針をとった。しかし開港そのものは、そもそも交易を目的として行われた関係上、いったん外国船が入港し、外人が上陸するようになれば、単に規定通りの薪水、食料のみの公的な供給だけにとどまらず、実質的な物品の売買行為を避けることは困難であった。たとえば安政3年閏4月18日付で、「異国人へ直売買は勿論、碇の異船へ近付候儀、弥以て致す間敷候、以来異り中は、昼夜に限らず其筋の者、船にて乗廻し相改の筈に候条、兼て触置候也。」(『御触書写』)という触書を出しているところからも、当初は外国人との直接取引を禁止していたが、翌4年閏5月4日には、次のような触書が出されている。
 
           触書
異人遊歩の節、市店売物直段の義に付、兼て触置候趣もこれあり候処、以来直段承り候はば申聞かせ苦しからず候。右売物取引の義は、是迄の通惣て御用所え持参、其筋え相渡候積に相心得申す可し。
尤商い品直段の儀御用達共え前以て相談いたし候処取究め置、御用所へ相納む可く、弥直売の儀は堅く停止せしめ候
右之通下々召次の者迄、能々申含め心得違い不都合の義これなき様相心得べきもの也。 (『御触書写』)

 
 これは、つまり外国人が上陸し、もし市中店頭にて希望する者があれば、売主とともに用達の店または沖ノ口役所に来て、代金を支払う時は、用達は売主に対して代金を支払い、洋貨を奉行所に送って通金と換金してもらい、沖ノ口役所では用達に対して支払い指令書を出すという方法で、形式的には直売買そのものは禁止されていたとはいえ、実質的には合法的な形で、貿易そのものが行われるような道も開かれることになった。
 しかしこの期の交易金額がどれほどあったものか、史料的に把握することはできないが、そう多額のものではなかったものと思われる。なお安政2年以降6年までの箱館港の外国船の入港状況は、軍艦なども含めて2年は28艘、3年は32艘、4年14艘、5年31艘、6年93艘となり(『松前箱館雑記』)、安政6年の貿易開始時までは多い年で32艘であった。
 安政6年外国貿易開始に先立ち、箱館奉行は、同年2月運上所および改船の旗印を決定するとともに、3月には運上所諸取扱手続ならびに貿易仕法などを制定して、種々の準備を整え、5月には貿易に関する心得なるものを布達した。その中で輸出品は、すべて5分の運上金を取ることを決めている。この運上金は、いわゆる外国輸出の関税であって、国内交易での沖ノ口口銭とは別のものである。また貿易品の出入は、朝五ツ時(午前8時)より夕七ツ半時(午後5時)までと限定し、夜中の荷揚げをきびしく取締まることにしている。
 なお、右の運上金沖ノ口口銭および問屋口銭との関係が混同されるおそれがあるため、翌万延元(1860)年閏三月、沖ノ口口銭沖ノ口役銭と改称した。