開港と同時に外国語の研究と教育が必要になった。諸術調所は特に語学だけを単一的に教授したわけではないが、蘭学諸技術の修得はまずオランダ語から始められることになるから、当然語学が基礎となり、英仏語も用いられた。斐三郎は米国貿易事務官ライスから英語を学んでおり、諸術調所の蔵書中には英書も多く見られる。
安政3年、箱館奉行支配調役下役格で来た名村五八郎は、江戸で英学を修めた名通詞で、長崎のオランダ通詞の家の出身である。文久元年5月、箱館奉行は五八郎に命じて、運上所内に「稽古所」を設け、公務の余暇に英語を教授させた。翌年教授職手当年額金5両を支給している。この官設の英語教授所は、「稽古所」のほかに「教学所」とも呼ばれ、更に「箱館洋学所」となった(変更年代不明)。ここでの目的は学術研究ではなく、もっばら通弁の養成が主であった。
五八郎は万延元(1860)年の遣米使節に通弁として同行しているが、箱館で彼から英語を教授されたなかには、立広作、塩田三郎、海老原錥四郎、鈴木清吉、南川兵吉、東浦房次郎、近藤源太郎、小林国太郎、合田光政、若山恒道、益田孝、三田佶、下山瑞庵などがいる。やがて五八郎は江戸へ転出したが、英語教育を最も必要とした箱館は、その後任として慶応元年6月、江戸開成所の教授であった堀達之助を迎えている。