嘉永2年から3年間、高竜寺の建築に関係した熊谷源太郎は、武蔵国熊谷の人で、小琳斉と号し、大酒家ではあったがひとたび彫刀を握れば寝食を忘れ、たちまち見事な彫刻をものにしたという。三国峠の権現堂で幕府官匠石川雲蝶と入神の彫技を競ったという佳話もあり、亀田八幡宮にはその作品も残っている。また高龍寺本堂にはその弟子の刀痕が残されている。
安政3年南部陣屋構築の命を受けた村田宗吉は、盛岡の人で、南部藩城内新御殿の普請に大工小頭を務めた経歴を持っていた。また五稜郭庁舎の請負は、幕府小普請方中川源左衛門と、その子伝蔵であり、石垣は備前の石工棟梁井上喜三郎の手に成った。喜三郎は松川弁之助とともに弁天岬台場も手がけたが、のち配下が築いた石垣が欠壊したので、責任を取って自刃したと伝えるほどの義人であった。箱館の左官工としては相川屋藤蔵が有名であった。