安政元年1月14日、ペリー艦隊は江戸湾外に姿を現わし、次いで16日には浦賀沖からさらに縦列をつくって江戸湾を溯航し、前年彼等が″アメリカ碇泊所″と名付けた小柴沖に投錨した。この時のペリー艦隊は旗艦サスケハナ号をはじめポーハタン号・ミシシッピー号(以上フリゲート艦)、マセドニアン号・ヴァンダリア号(以上スループ型砲艦)、レキシントン号(運送船)を加えた計7艘であった(『遠征記』、『遠征日記』、『幕外』4-395)。前年の艦隊は4艘であったから、今回は前年よりはるかに大規模な艦隊であった(2月には更にサラトガ号・サプライ号の2艘が加わり総計9艘となる)。しかも、その渡来が予定より2か月も早かっただけでなく、江戸湾内の小柴沖まで隊を組んで侵入してきたのである。そのため幕府は、1月15日急遽応接掛儒役林大学頭復斎、町奉行井戸対馬守覚弘、目付鵜殿民部少輔長鋭、儒者松崎満太郎に浦賀出張を命じ、彼等は18日江戸を発し浦賀に向った(『維新史料網要』巻1) 。しかし、この時彼等は、幕府より応接のための具体的方針は何一つ示されていなかった。
ではこうした状況の中でその後の日米交渉はどう進んだのであろうか。この点で注目しておきたいことは、今回のペリーの来日は、いうまでもなく大統領親書に対する日本側の回答書の受領と日本との和親(通商)条約の締結にその主たる目的があり、大艦隊を率いての小柴沖までの侵入は、特に後者の目的を実現するための大きな手段であっただけに、まず艦隊の碇泊地と応接場所をめぐって交渉が開始されたことである。この交渉は、主としてアダムスと浦賀奉行配下の幕吏(のち浦賀奉行)との間で行なわれたが、この交渉で幕府はペリーに対し艦隊を小柴沖から浦賀沖に撤退するよう強く要求するとともに、応接場所を浦賀か鎌倉にする旨伝えた。しかしペリーは、これらの要求と提示を全面的に拒否し、応接場所を江戸ないしは江戸に近い場所にすることを強く要求するとともに、もしこれらの要求がうけ入れられない場合は、艦隊を更に北上させ、必要な場合は江戸まで向う旨述べた。その後両者の交渉は平行線をたどり、何一つ進展しなかったため、ペリーは1月27日、突然艦隊を北上させ、江戸市中が見えるところまで迫るという大デモンストレーションを行なった。ことここにいたって、幕府はついにペリーの要求を呑み、翌28日横浜を応接場所とする旨決定した(『遠征日記』)。
しかし、この時点でも幕府の対米交渉方針は未だ決っていなかった。一応具体的な方針が決ったのは2月4日のことで、その内容は、漂流民の救助・炭水の補給は認めるが、通信・交易は拒否するというものであった(石井孝『日本開国史』)。それから3日後の2月7日横浜の応接所が竣工し、2月7日には早くも第1回の日米会談が同所で行なわれた。この時日本側は、前年の大統領親書に対する回答書を提出したが、その骨子は、(1)石炭・薪水・食料の供給と難破船員の救助は認める、(2)港については、希望港の通告をうけたあと凡5年後に決定する、(3)その間、石炭・食料・欠乏品等の供給は、明年正月より長崎で行なう、というものであった(『幕外』5-95、『遠征記』、『遠征日記』)。これに対しペリーは、和親(通商)条約の早期締結を強く要求し、応接掛に米清修交通商条約(望厦(ワンシア)条約、1844年)の写(漢文)と日米修交通商条約草案(漢文、条約名は「両国誠実永遠友睦之條約及太平和好貿易之章程」)を渡すとともに、要求が入れられるまで江戸湾に滞留する旨告げた。(『幕外』5-98~100)。望厦条約は、中国の5港(広州・福州・厦門・寧波・上海)の開港を規定したものであるが、ペリーの条約草案(全24か条)は、望厦条約(全34か条)の小型版で、同条約のうち輸出入にともなう重量税、度量衡の標準、公行(コーホン)体制(清朝の特許商人の制度)の廃止、民間人の負債、居留地の借地と遊歩地区、戦時の入港、開港場での船舶監督、開港場でのアメリカ人の犯罪とその裁判、両国官吏の対等な文書交換、アメリカ国書の伝達に関する10か条を削除したものにすぎず、この削除条文以外は、望厦条約と1字1句たがわず、相違点といえば、開港場名の欠除と、「大清国」が「日本国」、「大合衆国」が「合衆国」、「五港」が「其港」と書きかえられたことのみであった(『幕外』5-99・100、加藤祐三『黒船前後の世界』)。つまりペリーは、望厦条約をモデルとして日米通商条約を結ぼうとしていたわけである。
しかし、当日の林・ペリー会談で、林が薪水・食料・石炭の給与と漂民の救助は行なうが、交易については、「元来日本国ハ自国之産物に而自ら足り候而、外国之品物無レ之候共、少しも事欠候儀ハ無レ之候、夫故交易ハ不レ致法に相定候事に候」として頑として拒否したのみならず、「先使節此度渡来之主意と被レ致候ハ、第一人命を重んせられ、船々救助之儀、其望に叶ひ候ヘハ、眼目ハ立候事にて、交易之儀ハ、利益之論にて、指て人命に相拘り候事にハ無レ之儀にハ候はず哉」と反論するにいたって、ペリーは「如何にも仰之如く此度渡来之主意は、前々申上候通り、人命を重んし候事故、船々御救ひ被レ下候儀肝要之事に御座候、交易ハ国之利益にハ候へ共、人命に相拘り候と申にハ無レ之候ヘハ、最早此上交易之儀ハ強て相願申間敷候」と答えている(「横浜応接所日米対話書」『大日本維新史料』第2編ノ3)。林の論理に完全におしきられたかっこうであるが、この時ペリーが「最早此上交易之儀ハ強て相願申間敷候」と答えたのは、「米国が薪水・食料の供給および漂民の救助を第一義とし、対日貿易の開始をそれほど重視していなかったからであろう」(石井孝『日本開国史』)とされている。確かにその背景に上記のような理由が存在していたことは否めないにしても、ここで注目しておきたいことは、この第1回の日米会談も含め、日米和親条約調印時までにおける日米交渉で、林等がペリーの交易要求ないしはそれに類する内容の要求を拒否する楯として前年のフィルモア大統領の親書を意図的にかつ積極的に活用していることである。先にみたように大統領の親書には、貿易開始の要求も記されてはいたが、同書で当面日本に強く求めていたのは、難破船員に対する人道的扱いとその財産の保護、船舶に対する石炭・食料・水等欠乏品の供給とそのための1港の開港であった。林は、貿易をするかしないかは日本国内の問題、後者は国際関係の問題とおきかえたうえで、後者の内容とその受諾を楯にペリーの交易要求を拒否したのである。したがって、その限りに於て林の論理にはそれなりの一貫性が存在していたのであり、第1回日米会談における先のようなペリーの返答も、こうした問題とも深くかかわっていたものとみられるのである。