次に箱館における日米会談・交渉の内容について若干触れておこう。4月22日、応接所山田屋寿兵衛宅で第1回の日米会談が行われたが、この時のアメリカ側の代表は、旗艦付参謀大尉ベント、同主席通訳官ウイリアムズ、同提督秘書ペリー(ペリーの子息)同提督書記兼オランダ語通訳官ポートマン、同衛兵伍長代理助手兼画家ブラウン(「御用記写」には「船上司画官 波浪ホロン」とあるが、「ブラウン」とみられる)、広東人(中国文翻訳者)羅森の6名、日本(松前藩)側代表は、用人遠藤又左衛門、町奉行石塚官蔵、箱館奉行工藤茂五郎、応接方藤原主馬・関央・代嶋剛平・蛯子次郎の7名であった(「御用記写」、『随行記』、『遠征日記』付録C)。ペリー及び松前勘解由とも出席していない点で、この会談は予備的会談であったといってよいが、両国代表が所定の席に着席するや、まずウイリアムズが漢文書面で来訪の目的や松前藩役人に対する要求事項を提示した。その内容は「御用記写」に漢文で詳細に記されており、『遠征記』にもその重訳文(但し、その内容や各事項の順序は「御用記写」の漢文のそれと若干異なる)が載っているが、両者をもとにその概要を示すと、(1)提督は、3月3日横浜に於て締結された日米両国との条約により来箱したこと、(2)箱館の官員は、この条約の各条文の内容を尊守して事を行うことを望むこと、また、もし条約に違反するようなことがあれば、その罪は箱館の官員に帰すべきこと、(3)下田におけると同様、箱館においてもアメリカ人の自由な遊歩を許し、かつ店舗・寺社及び公共の建物に入る自由を認めること、(4)箱館市中の商人にアメリカ人と商品を売買することを許し、そのための通貨を定めること、(5)箱館の産物を提供すること、これに対しては代価を支払う、(6)提督・士官・画家に対し、休息及び絵画用の場として各1軒宛、計3軒の「公館」を提供すること、などであった。
翌4月23日、松前藩側は応接所でこれに対する回答書をウイリアムズに手渡したが、その内容は、冒頭に「昨(さき)に各位の示す所の條件を熟覧するに云えり、三月初三日横浜に與(おい)て大臣和約を立定するの事あり、故に今此に到ると。并せて箱館の官員に横浜條約に照して款を以て事を行わんことを要(のぞ)む、且下田繋泊中の規矩に遵(したが)い、以て賣買貿易せんとし、及び館三間を以て歇息写画の用と為さんとす。獨り横浜に已に條約有り、而るに朝廷(幕府)未だ條約の事件を以て箱館に傳來すること有らざるを訝(いぶか)る。前日浦賀の信書も亦一語の此に及ぶこと無し、現今公等に逅(あ)いて初めてこれを聞き知る也。夫れ朝廷(幕府)未だ命有らずして妄(みだり)に從事する者は元より厳律の假あらざる有り列国皆遵奉して違わず、豈(あに)これを度越するを得んや」(「御用記写」、原漢文、( )内は引用者)とあるように、ペリーのいう「横浜條約」については未だ幕府より通知がないなかで、幕府の指示なしに1大名がみだりにペリーの要求を受け入れることは困難であることを強調しつつも、最終的には、(6)の件を除いてほぼ全面的に承諾するものとなっていた。
松前藩側がこうした建て前と結論が相矛盾した内容の回答書を提出したのは、内心ではその真偽のほどを疑っていたとはいえ、すでに4月21日、応接方が条約文をみていたこと、さらに平穏に取扱うべしという幕府の厳達に加え、回答文の作成に当って井上富左右の了承を得ていたこと、などによるものであろう。なお、松前藩の役人たちが、ペリーから条約正文を示され、かつ漢文の写しを与えられたのは、この回答書提出後のことであり、さらに彼等が下田・箱館両港を開港する旨の幕府の通告に接したのは、それより遅れること数時間後のことであった。