奉行配下の吏僚

81 ~ 84 / 1505ページ
 以上の諸側面から窺えるように、当期の箱館奉行に課せられた任務の重みは、第1期のそれの比ではなかった。それだけに、当期の箱館奉行配下の吏僚の数も厖大なものとなった。安政2年3月27日現在の箱館奉行(竹内・堀)配下の手付以上の吏僚は、支配組頭2名(箱館1、江戸1)、調役2名(箱館)、調役並4名(箱館3、江戸1)、調役下役14名(箱館11、江戸3)、手付5名(江戸)の27名(箱館17、江戸10)のみにすぎなかったが(秋田藩「蝦夷地御警固御記録」)、安政5年には表序-5にみる如く関係吏僚は400名以上に達するにいたった。(B)史料によると、奉行3名(竹内・堀・村垣)を除いた下役以上の吏僚は157名で、在住を除いた支配組頭以下の吏僚総数388名の40.5パーセントを占め、なかでも多いのが調役並役・調役下役・同出役で、これのみで支配組頭~下役格職の66パーセント強を占め、これらの職が上層吏僚の中核的役割を担っていたことが判る。また、同心組頭以下御雇医師までの数は219名で、同じく在住を除いた支配組頭以下の吏僚総数の56.4パーセントを占めており、なかでも最も多いのが同心と足軽で、彼等が下級吏僚の中核を担っていたことが判る。
 さらにこれを勤務地別にみると、在住を除いた吏僚の50パーセント以上が箱館に、35パーセント強が蝦夷地に勤務しいているが、このことは、この期の箱館奉行の松前・蝦夷地支配にとって、箱館がその政治・経済的な拠点として極めて重要な役割を果たしていたことを示していると同時に、蝦夷地支配にかかわる同奉行の任務の重さをも別の角度から示しているものとみることができよう。なお、この表では、箱館奉行が3名になっているが、これは、安政3年7月28日、従来の竹内・堀に加え新たに村垣與三郎が同奉行に任じられるとともに、3名のうち箱館江戸に各1人在勤し、他の1人は蝦夷地を巡廻するという新たな体制が成立したことによるものであり(『幕外』14-192)、同年9月20日以降3名の交代順年が決まった(『幕外』15-54)。
 
表序-5 安政5年箱館奉行及び同奉行配下吏僚・職別・勤務地別人数表
職(席)名
高、役料、役金、手当等
人数
(B)の勤務地別内訳
安政5年
正月
安政5年
12月
(A)
(B)
箱館奉行高2,000石、役料1,500俵
3人
3(3)人
〈2〉人
〈1〉人
支配組頭高150俵、役料300俵、役金120両
3
3(3)
3(1)
(2)
同勤方高150俵、役料150俵、役金120両
3
3(3)
3(3)
調役高150俵、役扶持10人扶持、役金90両
6
6(6)
3(3)
1(1)
1(1)
(1)
2(1)
調役並役高100俵扶持、役扶持7人扶持、役金70両
13
21(14)
4(5)
5(3)
3(1)
5(1)
13(5)
2(2)
2(2)
同出役持高、役扶持7人扶持、役金50両
5
(4)
(1)
(2)
(1)
(4)
支配勘定格調役下役元〆高100俵持扶持、役扶持5人扶持、役金45両
4
4(4)
2(2)
1(1)
1(1)
2(2)
調役下役元〆高80俵、役扶持5人扶持、役金45両
1
1(1)
1(1)
調役下役高30俵3人扶持、役扶持3人扶持、役金35両
43
50(41)
19(16)
12(12)
13(11)
3
28(23)
1
2(2)
同出役持高、役扶持3人扶持、役金35両
33
33(32)
16(15)
5(5)
3(4)
2(1)
10(10)
6(6)
1(1)
下役出役見習
5
5(5)
5(4)
(1)
(1)
下役格
1(1)
1(1)
御礼席元〆次席
2
同心組頭高20俵2人扶持、役金7両、勤金1ヵ月2分
3
4(4)
3(2)
1(1)
(1)
1(2)
同心組頭格高20俵2人扶持、役金7両、筆墨料1ヵ月銀5匁
7
4(6)
2(3)
2(2)
(1)
2(3)
同心高20俵2人扶持、手当6両
94
88(92)
44(50)
19(19)
19(20)
5(2)
43(41)
1(1)
御雇同心手当1ヵ月1両
3
3(3)
3(3)
同心見習
11
9(8)
9(8)
与力現米80石、仮抱10人扶持
6
7(7)
7(7)
足軽小頑4石2斗2人扶持、筆墨料
6
6(?)
6(?)
足軽4石2斗2人扶持
86
89(?)
52(?)
15(?)
15(?)
7(?)
37(?)
手付出役(出役扶持)上下席5人扶持、羽織席3人扶持、 各手当4両
11
9(9)
9(3)
(5)
(1)
江戸御役所書物御用出役以上銀10枚、上下席6両、羽織席5両、 各筆墨料1両
 
25
21(24)
21(20)
(4)
箱館御役所書物御用出役
2(2)
2(2)
諸術調所教授役
1(1)
1(1)
御雇
5
6(7)
6(7)
御雇医師
8<6>
12(12)
?
通弁
4
蝦夷地在任(在住
(在住)16
71(71)
?
合計
406
462
(363+α)
203+α
(139+α)
59+α
(43+α)
56+α
(43+α)
22+α
(6+α)
137+α
(92+α)
32
(38)
5
(4)
2
(7)

 
 (A)は「松前箱館雑記」11(東大史料編纂所蔵)による。但し、「同心」には「牢屋番同心」1名、「火消同心」1名を含む。また「御雇医師」の内〈6〉は8名のうち「蝦夷地御雇医師」の数。
 (B)は「安政五戊午年十二月改、支配内役々井在住人名前張」モンベツ御用所(道立文書館蔵)による。但し、( )内の数字は「函府人名録」〈年月不祥なるも、安政5年頃とみられる〉による。
 また、箱館奉行の安政5年の勤務地は、竹内が箱館、村垣が蝦夷地巡回、堀が江戸となっているので(『幕末外国関係文書』15-54)、とりあえず箱館〈2〉、江戸〈1〉とし、箱館江戸の計にともにこの数を含めた。なお、(A)の「御礼席元〆次席」の2名は、仁杉?三郎・武田斐三郎、「通詞」の4名は、品川藤十郎・堀傳造・荒木卯十郎・植村直五郎(B)の「下役格」1名はともに名村五八郎、「諸術調所教授役」1名はともに武田斐三郎である。なお、安政6年4月、「調役下役」は「定役」と改称され、それに伴ない「調役下役元〆」は「定役元〆」、「詞役下役出役」は「定役出役」と改称された(箱館御役所「慶応二年・明細短冊」道立文書館蔵)。