もとより箱館には大工をはじめとする諸職人たちは決して多くはなかった。そのため、安政6年に運上会所や産物会所を建てようとする時には、「箱館表之儀は、毎々申上候通、材木諸品を始、大工、人足、諸職人とも払底に付、越後新潟表におゐて、下拵切組いたし、船廻致候方、御入用相減、却而捗取も宜候」(『幕外』22-112)とされたほどである。五稜郭や弁天台場などの土木工事もあって、箱館には本州から多くの職人たちが入り込んでいたが、こういう中に初期の領事館建設などで、洋風建築に携わった人々もいるのではないかと思われるのである。万延元(1860)年9月18日、軍艦で箱館に入港したロシア人植物学者のマキシモヴィッチは、自書の「箱館日記」(井上幸三『マクシモービチと須川長之助』)の中で、「町は港から始まり、悪いところではない。明らかに風変りな建物がある。左端の高い所に君臨しているようなロシア領事館、魅力的な三階建、屋根のとんがりに領事館旗がはためいている。その左手に二階建がある。領事館医の白い家である」と描写している。具体的な史料は未詳であるが、箱館における広い意味での洋風建築の第1号は、このロシア領事館と考えられる。そしてこの建設に携わった大工をはじめとする職人は、初めて洋風建築に挑戦した人々であっただろう。もっとも、安政5年に亀田に建てられたロシアの養生所(病院)には窓にガラスが入っていたことは記録に残っている。ロシア領事館は安政6年6月には地ならしが終わり、建設工事が開始された。この工事を請け負ったのは、棟梁「忠次郎」という人物であったことは、「亜館御普請御用留」に示されているが、この人物は後にロシア病院やイギリス領事館、未完に終わったアメリカ領事館、大町埋立地の造成と一連の工事を請け負っている。なお先の日記によれば、このロシアの建造物について、ナリモフ中尉(領事館員のナジモフ大尉であろう)が建築技師としての役割を果たした、とある。ロシア領事団一行は、それまで実行寺と高龍寺に別れて居住していたが、翌万延元年春には新館が一部完成したので、まず実行寺から領事が移っている(万延元中年正月より6月迄「各国書翰留」道文蔵)。毎日大勢の職人を雇って、専ら急がせて作ったらしいが、できはかなり悪かったらしい。その証拠にその後文久2年に隣の敷地では、同じく忠次郎が請け負ったロシア病院の建設が始まったが、その時に以前に「悪しく」建てた建物の補修も含まれていた(文久2戌年正月より12月迄「各国書翰留 魯亜」道文蔵)。ロシア領事館にしろ、病院にしろ、ロシア領事と忠次郎との相対で工事が進められていたが、ロシア領事は職人たちの働き振りを怠慢とみて、奉行に指導を頼んでいる。しかし、初めて洋風建築を手掛けた大工たちは、伝統的な日本の建築の知識と技術でしか対応できなかったわけで、時間がかかったり不首尾に終わっても、一方的に責められるものではないだろう。