箱館にあって杉浦兵庫頭が「人心安堵」に腐心していたころ、京都の新政府に、2月27日青年公卿清水谷公考・高野保建の両名から蝦夷地鎮撫に関する「建議書」が提出された。この建議書は、北蝦夷地(樺太)までを踏査してロシアの脅威を肌で感じ、蝦夷地開拓による国力強化を唱えていた岡本監輔らの建策によるものといわれており、蝦夷地は東征軍に敵対する勢力(庄内、会津藩等)の温床となる恐れがあり、ロシアが蚕食南下する危険性もはらみ、また多大なる漁業の利を見込める地なので、早急に新政府が掌握するため鎮撫使の派遣を懇願するというものであった(「外国事務局筆記」『復古記』2)。脆弱な政治基盤の強化を武力制圧に賭けて東制軍派遣に忙殺されていた新政府首脳の眼前に、初めて蝦夷地の存在がクローズアップされたのである。3月9日天皇は、太政官代(京都二条城)に臨幸、三職(総裁、議定、参与)を召集して清水谷・高野両名の建議「蝦夷地開拓ノ可否」を諮詢した。三職一同からは「開拓可然」との言上があり(「太政官日誌」『維新日誌』)、蝦夷地に対して何らかの施策が期待されることとなった。
しかし、当時の新政府首脳には蝦夷地について充分な認識があったとはいえず、翌10日、三職に対して「蝦夷地開拓」および「鎮撫使派遣の遅速」についての建言書を12日までに提出するよう指令されたが、提出された25通の建言書は「何等の意見もこれ無」とか「至当の御儀と存候」などが大半で(前掲「太政官日誌」)、具体性を欠いていた。そこで、清水谷公考・高野保建の両名は、3月19日再び「建議書」を提出、7ヶ条にわたって蝦夷地開拓の方法について建言、鎮撫使となって蝦夷地に派遣され政務を担当することへの自信と決意を示した。建議は、蝦夷地の現況認識とその対応および開拓振興策からなっており、その基礎は、岡本監輔や松前藩からの情報であったと思われ、蝦夷地の現況認識は非常に的確なものとなっている。まず、第1項では開拓の志ある者は自由に移住することを許し、第2項では施政担当者にはたとえ奇才・異能あるものでも協調性のない人物は除外して人選するようにと、開拓に取組む基本姿勢を示し、次いで、第3項では鎮撫使の派遣は松前藩が案内を担当するので、まず松前に上陸、箱館へはその旨を布告すれば、旧幕府箱館奉行所も国家的見地から徳川家の支配継続には固執しないという情報も入っており、蝦夷地警衛諸藩も会津・庄内以外は鎮撫使受け入れに異存ない状況を述べ、第4項、第6項ではロシア人以外の北方民族とは是迄通り交易し、自他の差別無く親交、北蝦夷地(樺太)は本来我が国の領地であるが、旧幕府がロシアと雑居を約しているので取りあえず雑居のままとし、ロシア人がこの件について交渉を求めれば交渉に応ずるにして、まずロシア人の住まない所に漁夫等多くの人数を移住させ奥地の開拓に進め、航海、海運については、箱館在留のイギリス人ブラキストンを用いれば大きな効果が期待できるなどと、新政府による蝦夷地掌握を円滑に進めるための見通しを述べている。最後に、開拓振興策に言及した第5項では蝦夷地枢要の地石狩近辺を開拓の根拠地とすること、第7項では請負人を廃止することなどは肝要のことと思うが、性急に実施すれば現地を混乱させることになるので、まず物産興業の鼓舞に努め、人心の安静を心がけたいと述べ、具体的な方略は衆議を尽くし立案、許可を仰ぎたいと結んでいる(「内国事務局叢書」『復古記』2)。
この結果、3月25日蝦夷地開拓の具体策が討議されることとなり、議事所において三職に対し、副総裁岩倉具視より次の3ヶ条に関する意見が求められた。(前掲「太政官日誌」)
第一条 箱館裁判所被取建候事
第二条 同所総督、副総督、参謀人選ノ事
第三条 蝦夷地名目被改、南北二道被立置テハ如何
答議は第2条の総督以下の人選に集中したため、岩倉副総裁は衆議をまとめ「先ヅ人選ヲ決定シ、然ル後裁判所取建、追々開拓ニ手ヲ下スベシ」と宣して議事を終え、新政府の蝦夷地開拓着手順序が決定した。第3条については翌明治2年開拓使設置後の8月15日に実施、蝦夷地は二分されることなく北海道となった。この改称は、蝦夷地をくまなく実地踏査した実績をかわれて開拓使判官に任命されていた松浦武四郎の意見に基づいたもので、同時に渡島国以下11か国68郡名も設定されている(前掲「太政官日誌」)。