裁判所首脳は閏4月27日五稜郭の管理引継ぎ後、裁判所規則の検討を進めていたが、まず官吏服務規定「覚」(慶応4年5月「箱館裁判所例規」)を定めた。この服務規定は「(1)局中一和に信義を不失様肝要の事」以下6か条からなっており、(2)権威がましき振舞の禁止、(3)外国人との勝手な談話や喧嘩争論の禁止、(4)異変の際は混乱を防ぎ臨機の指揮を待つこと、(5)法令を守り役務に精勤し、悪を掩い善を拒むことなきこと、(6)不正の所業は虚実を監察方で糺すこと等が述べられており、上層部は京都から総督に随従してきた者、下僚は旧幕府箱館奉行所から実務担当者として引継がれた者とから成り立っていた箱館裁判所が、まず所内の宥和と規律に配慮していたことが窺われる。
次いで、職務内容とその分課を定め、主要担当係官名と共に布達した。杉浦兵庫頭の日記には4月29日の項にその内容が載せられている。この職掌は5月7日に改正されているので、改正後のものを次に掲げる。
分課 | 主任官名 | 職掌 |
民政方 | 井上石見 | 神仏、市在公事訴訟、刑獄、作事、病院、勧農、拓地等の事を掌る。 |
文武方 | 堀真五郎 | 文武講習、器械製造、防火捕逮の事を掌る。 |
生産方 | 山東一郎 | 財本を開き、産物商法、諸運送船等の事を掌る。 |
外国方 | 小野淳輔 | 各国一切の事務を掌る。 |
勘定方 | 巌玄溟 | 金穀出入、賦税、秩録、倉廩等の事を掌る。 |
監察 | 長谷部卓爾 | 内外の過失を論じ、諸司の作法を正し総て弾劾の事を掌る。 |
執達 | 吉田復太郎 | 諸藩并士民応接、使命伝達の事を掌る。 |
別紙の通改て相用候様被仰出候、右様御承知可被成候 以上 | ||
五月七日 | 監察 | |
注、字句については、上山半右衛門「日記」、「箱館裁判所例規」、「日次記」を照合して整理してある。 |
この5月7日には携帯する提灯の印で階位がわかるようにした「提灯定」も出された。総督は「惣白で朱菊紋三つの騎馬張り提灯」、判事は「惣白で朱菊紋三つと下に黒で自分紋一つの騎馬張り提灯」、司事、参事、従事、給事は「惣白で黒菊紋三つと下に自分紋一つの騎馬張り提灯」、総督近習は「惣白で黒総督紋三つの騎馬張り提灯」、無等以下は「惣白で裁判所ノ三文字入りの長弓張、小田原両提灯」を用いる規則で、無等以下が用いる提灯以外は自分調達であった(前掲「箱館裁判所例規」)。
職制については、上級職は京都において総督、副総督、判事、権判事が任命され、新政府の地方行政官として明確に位置づけられていた。もっとも判事、権判事は、内国事務局の判事、権判事として任命され、箱館在勤も同時に命ぜられるという形をとっていたが、閏4月24日に箱館裁判所総督が箱館府の知府事と改称された時、判事、権判事も判府事、権判府事と改称され、箱館府直属の職員となった。しかし、実質的な政務担当者である属僚の職名は、裁判所開庁前は判事の下に判事試補、病院懸り等の職務別の懸り、筆生、加勢、学校助教、付属などの職名が付けられている史料(上山半右衛門「日記」等)もみられるが、総称としては裁判所付属と呼ばれていたようで、裁判所開庁の際、判事、権判事以下の職名を司事、参事、従事、給事、趨事、無等(のち行事と命名し、7月8日に属事と改称)の6等と定めた(確定は五月七日のようである)。実務担当者の大半を占める旧幕府の属吏も、次のような基準で裁判所職員に任用され、市在支配や沖の口・運上所業務などの実務は、旧幕府箱館奉行所のころと大差なく遂行されていくこととなった。
職名の対照表及び給料と各局定員数
司事席…以前の組頭・同格 (月俸四百円~二百円)
民政三員、文武生産外国勘定監察執達各一員都て八員、判事を補、一局ノ諸務を督す
参事席…以前の調役・同並・同出役・同並出役 (月俸三百円~百円)
民政四員、其外各局二員、夫々分職を受て各其一務を掌る、都て十六員
従事席…以前の定役元締・同格 (月俸二百円~七十五円)
民政六員、文武生産各四員、外国勘定各三員、監察執達各二員都て二十四員、
参事等ノ職を補ふ、又各其事務に従ふ、場所出役ノ者は一千家に一員を置
給事席…以前の定役・同格・同出役 (月俸百二十円~六十円)
民政十員、其外各六員、監察執達各三員都て四十員、場所出役凡五百家に一員を置
趨事席…以前の同心組頭・同格・同心 (月俸七十円~三十円)
民政二十員、文武生産各十二員、外国勘定各八員、監察執達各四員都て六十八員
無等……以前の足軽 (前掲「箱館裁判所例規」より作成)