政権交代の舞台・五稜郭 原田祐平氏提供
26日、脱走軍は無人の五稜郭へ入りこれを占拠した。各地を転戦して実戦経験の豊富な脱走軍は、装備も古いものが多く実戦経験の少ない新政府軍を初戦で一蹴したのである。この日、箱館港には回天、蟠龍の2艦が入港、箱館港および箱館を制圧した。この間の動きについて運上所の日誌である「外国人ニ関スル件・一一六」(道文蔵)には、
十月二十四日 一 同夜諸詰処引払候事
一月二十五日 一 諸藩并役々乗組候船々、今日五ツ時頃退帆相成候事
一 今朝四ツ時頃津軽陣屋焼失、同藩不残退帆相成候事
十月二十六日 一 徳川家諸士諸詰処へ相詰候事
十月二十七日 (一と記したのみで記事の記載なし)
十月二十八日 泊り 本郷又左衛門
合田甚太郎
一 運上処へ呼上ケ相成候名前 大藤、本郷を初め十人(全員箱館府の運上所役人および通弁)
右運上処役雇申渡
十月二十八日
と淡々と記されている。なお、対外的な税関業務は十一月二日から再開された。
箱館を押さえた脱走軍は、まず次のような触書を町会所を通して即日市中へ触れ出した。
一 徳川海陸ノモノ衆議ノ上、永井玄蕃ハ当所奉行ニ選候間、此段相心得、市中村々ヘ相触可申事
辰十月 徳川海陸軍士
一 我等儀、兼テ歎願致置候儀有之、当湊ヘ罷越候処、当所詰役人不残引払、右ニ付市中動揺致趣ニ付、為鎮撫上陸、決テ手アラノ儀無之候間、他所ヘ立退候モノモ安堵ニ商売可致事
十月二十五日 回天艦船将
名主中 (「南部藩島忠之丞探索書」『復古記』)
また、運上所詰の役人へは次のような指令を出していた。
一 当所詰役ノ多分ハ脱走致渡海遁レ候得共、尚市在ニ居候者モ有之、右ハ取調ノ上帰役モ可申付候間、当人ハ勿論所々ノモノ共運上所ヘ可訴出候、尤、諸家兵隊ノ向ニテ潜居候モノハ篤ト穿鑿イタシ、是又早々可訴候、若隠居顕ニオイテハ厳重可申付候事
右ノ趣市中、村々ヘ不洩様早々可相聞触候 以上
辰十月二十七日 運上所 (同前)
元若年寄で外交交渉にも経験を有し、大政奉還の上表文も書いた老練な永井玄蕃が箱館奉行に就任、施政に当たることとなったのである。彼は小林重吉宅に止宿していたという(南部藩山本寛次郎「探索報告」『復古記』)。さらに11月1日には旗艦開陽も入港、祝砲21発を轟かせた。