移出海産物の取引

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 前掲の「明治二十年中函館商況一班」によって、明治20年代初頭において、函館の水産物の集散にたずさわった商人についてみてみよう。
 漁場を所有し、資本を投じこれを営業して漁獲物を販売し、あるいは漁民に仕込をなし漁獲物をえて、販売する水産商は、いわゆる市中に61戸あり、中でも旧場所請負人の系譜をひく、藤野、栖原の2店が依然として屈指の水産家であったという。そのほか、昆布、鮭の漁場所有者、亀田郡、東海岸各漁場仕入商人(仕込と同意)、等々がみられた。
 この亀田郡、東海岸漁場仕入については「元来、漁場仕入とは収獲期節に至れば、漁夫の出稼旅費を支弁し、其終期に至り返済する例なるが、漁民追々帰国に際し僅に二円を返却し、又は全く一銭なしにて来るものもありて全く返済せず、又、漁業着手中、米、味噌、太物より万事日用品を仕送る習慣なるが、これも収獲現品にて返済する約束なれど、其時となれば半額も入れて平あやまりに申訳する弊あり。右は収獲中に漁場へ買ひあつめに回る者あり。漁業者に於てこの輩へ葉売りをなして終に返済する品に欠乏するに至る。仕入主に於ても随分無利の利を占める弊もあれども、之に対する漁民の近来の処置も右の如きに於ては、双方とも互に不安心の営業とはなれり」と記してあって、大漁業家に対する仕込ではなく、零細出稼漁民に対する仕込であり、また、漁場を回って直接に漁民から買集める商人がいたことを知ることができる。「昆布は此東海岸の者は多く大坂向きにて捌口よろしく、只相場安く利純少し。鰛、鰤、鱈漁とも例年よりはよろしき方」と続けているので、これら零細出稼漁民の漁業の対象は、昆布、鰛、鰤、鱈などであったらしい。
 他から漁獲物を買取り、または委託をうけて卸売をなした物産商は、市中に41名を数えた。営業内容からいうと買屋的であり、「同商には各種類あり」とされているように、取扱品目によって多様であった。陸産物の集散が増加すると、それを専業とする物産商もあらわれた。主要な商人としては、産地において出産物の見込買を専業とする野村正三、金沢弥惣兵衛、昆布、鮑、煎海鼠、鯣など雑多な品目を手広く扱い、東京、その他各地に移出する谷津菊右衛門、高橋七重助、締粕・昆布を主とし、その他海産物を扱い、日の出の勢いの中村吉兵衛、小杉重吉、服部半左衛門、青木栄次郎、蛯子七郎兵衛、小林録太郎があげられている。小杉店は、北海道産の魚油を独占する程だったという。そのほか、谷伴吉ほか4店は、上海へ直送する見込で、清国行海産物の買占めにあたった。
 「明治十九年は随分冒険の山師商がはびこりて非常に損害を受けしが、二十年は此輩を一掃して各商共互に商法上の徳義を重んじ、相信ずるに至りたれば、〆粕、塩鮭の青田買商人も順当の利潤を得たり」とあって、投機的な買付商人が横行したことが知られる。また、青田買商人も、この物産商を構成していたのかもしれない。
 委託品売買商は1名、仲買商は63名とされているが、委託品売買商は、北海道の海産物、あるいは府県の貨物の委託をうけて営業するもので、その行為は仲買的なものであるところからみて、委託品売買商といい、仲買商といっても、ほとんど同じ業態だとみていいようであり、いわゆる買屋に属するものが多かったのであろう。同商のうちの有力者としては、石坂嘉造、今井栄七、渋川富太郎、吉田庄作、明下良造、平出喜三郎の6店があげられている。
 明治20年中の三井物産会社支店と北海道共同商会の海産物の取扱高は、三井が締粕1万8426石、塩鮭9500石余、塩鱒1万4800石余で、うち7分が委託売買、3分が直売買、共同商会は委託販売専業で、昆布2800石、締粕8750石、塩鮭1万1370石である。取扱量の多さから、その重要性が窺えるであろう。
 函館の移出海産物のうち、最も大きな比重を占めた海産肥料について、その後の推移をみてみよう。明治40年11月刊『殖民公報』39号の「函館に於ける海産肥料」によれば、需要の増大、販路の拡張により函館の移出高は増加をつづけ、明治26年には37万7031石に達し、その全盛を迎え、以後、一高一低をくりかえしながら漸減し、明治39年には26万0759石に減少している。不漁続きのうえに、他の港湾の商業が発達したことが原因であった。しかし、数量においては減少したものの相場の関係から価額においては増大し、433万2818円を数えている。
 移出魚肥のうちでは、鰊締粕が最も多く、22万9949石、価額383万7850円で、価額において移出魚肥の88.6パーセントを占めた。そのほかは、胴鰊が1981石、3万0292円、鰊笹目565石、6780円、鰛粕2万0905石、35万3922円、その他粕類7192石、11万1189円などである。鰊肥料の函館への移入は、樺太産が圧倒的に多い。鰊締粕では、樺太からの移入が159万円にのぼり、函館近海、江差、稚内および網走が各10万円であった。鰮粕の産地は函館近海から大津にいたる東海岸で、特に大津が多く、その他粕類は、樺太産を第一とし、江差、大津、択捉、浦河産などがこれについだ。
 鰊締粕の仕向地は、第1位が東京の132万円余、第2位が四日市で、新潟、大阪、神戸、青森、横浜などが順次これにつぎ、胴鰊は四日市、大阪の比重が高く、鰊笹目は青森に比較的多く送られた。鰮粕は、その大部分が大阪に輸送され、その他粕類は、新潟、青森、伏木、東京が主であった。
 樺太産魚肥の魚肥の比重が高いのは、露領漁業が、函館を根拠地として発展したからにほかならず、日露戦争の結果、樺太が日本領になっても、その地位に変化はみられなかった。
 樺太産魚肥の函館への搬入は、専ら樺太漁業家の手でおこなわれた。函館の魚肥商人は、函館の倉庫においてこれを取引し、府県へ移出した。移出の方法は、需要地商人の買付注文により運賃込みで、あるいは運賃を別にして値段を定め、取引をおこなっている。明治43年ころの函館の主要海産肥料業者は、末広町の岡本忠蔵、大町の川名得太郎、船場町の安達支店、同町の森本一郎、東浜町の藤野四郎兵衛、仲浜町の岩出惣兵衛、末広町の田中武兵衛支店などであった(「函館港輸出海産肥料」『殖民公報』63号)。