北海道関係の航路

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 同社は開業時に旧北海道運輸会社の拝借船である汽船玄武丸などの汽船3隻と帆船8隻を政府から貸し下げられ、また合併した他の2社からの継承した船舶をあわせて汽船5隻、帆船22隻の陣容で開業した。開業1年間の営業内容をみると前期は船舶が充分ではないということもあり、「営業モ亦随テ微々タル景状」(『共同運輸会社第一回実際報告』)であったので、伊藤社長は渡英して、新造船や既成の汽船の購入にあたった。下半期になるとイギリスに発注していた新造船が横浜に回航されたこともあり「稍営業ト称スルニ足ルモノアリ」という程度になったが、その経営は依然として小規模にとどまっていた。
 さて、函館では16年1月に北海道運輸会社が共同運輸会社へと合併したことから、東浜町の北海道運輸会社の社屋が共同運輸の函館支社となり、北海道運輸会社の幹事であった園田実徳が支配人、東京風帆船会社の代理店を務めた回漕問屋の宮路助三郎が副支配人(同人は7月に東京支社に転任)となった。北海道運輸会社の小樽、根室支店は函館と同様に共同運輸会社の支店へと移行した。なお、2月20日に旧北海道運輸会社の株主配当を主とする内容の総会が開催されたが、配当利益が保証されるとあって、移行はすんなり承認された。
 さて16年の共同運輸の開いた航路は東京発着が15路線、大阪発着が3路線、函館発着が2路線であり、それに北海道沿海諸港の間となっているが、これらはいずれも不定期路線であり、この他に森・室蘭間と国後諸島間のみ定期便を開設している。これらの航路は前者が札幌県、後者が根室両県より申請があり政府が補助金を下付して定期航路を開かせたものである(『農商務卿第三回報告』)。
 このうち北海道に関係する航路は東京-函館・小樽・根室、東京-函館・鰺ヶ沢・舟川・酒田新潟、函館-小樽・根室択捉、函館-青森、森-室蘭(定期)、国後諸島(定期)、北海道沿海諸港間となっている。
 これらの航路は東京発の便は函館経由で小樽行きの便あるいは根室行きの便がそれぞれあり、函館を中継地としていること、同じく新潟方面の便も函館経由であった。また函館と小樽・根室択捉線は函館を起点としてそれぞれの港に行く便を意味している。なお青函航路には凌風丸を専用船として配置し運航させたが、三菱が隔日運航の定期便化しているのに対して共同運輸はこの年はまだ不定期便であった。
 ちなみに15年10月に発起人から提出された「資本金増額ニ付請願」(『渋沢栄一伝記資料』)によれば、同社が国内沿岸航路の増進すべき航路として15線をあげているが、そのうち函館を起点あるいは終点とし、もしくは中継点とする航路は9線あり、こうした点について請願書では「…右掲クル所ノモノハ実際最モ枢要ノ航路ナリ、就中敦賀函館小樽間ノ航路ノ如キハ所謂北海ノ要路ニシテ」と述べて、北海道への関心の高さとともに、当時の国内海運において北海道関係航路が重要視されているのがわかる。また同書には「…函館上海間ノ直航路ニ於ケル、方今海外輸出物産中重モナル部分ニ位スル昆布其他ノ海産及硫黄ノ如キ、現場ニ在テハ皆ナ一時横浜ニ運漕シ、転載シテ以テ上海香港ノ諸港ニ送ルモノナレハ、其不便ナル一言ノ尽ス所ニアラス、故ニ直航ノ便利ヲ起ストキハ、北海全道ノ物産ヲ奨励スルニ於テ又何ノ術カ之レニ過キン」と函館からの海外直航便の必要性を述べている。このように北海道関係の航路については強い関心を持っており、特にその中継点には函館が位置づけられていた。この請願の構想どおりに路線は開設されなかったものの、同社にとっても北海道関係が大きな比重を占めていたことにかわりはない。
 これらの航路は従来三菱船も就航していたが、両社の競合、競争激化といった事態が生じるのは、やや後になってからであった。16年の函館県下の航路に関して函館県では次のように報告している(明治16年「巡察使差出書類参考書」道文蔵)。まず定期航路については次のとおりであった。
 函館・東京間定期航海(三菱会社の汽船が1週間に1往復。ほかに月に3~4回、他社船の不定期便あり)、函館・小樽間定期航海(三菱会社の汽船が双方を4日ごとに出帆。ほかに月に3~4回、他社船の不定期便あり)、函館・根室間定期航海(三菱会社の汽船が双方を7日ごとに出帆。ただし3月から3月は休航。ほかに他社の汽船が月に3、4回の不定期便を根室や釧路、厚岸、浜中などに就航)、函館・青森間定期航路(三菱会社の汽船が隔日に出帆。その他の会社の汽船は月に15回程度の不定期便)、森・室蘭間定期航海(共同運輸会社の汽船が毎日往復)と以上の6路線であった。
 この他に不定期航路は、函館・江差、福山(6月より10月までの期間に月に2往復)、函館・土崎、酒田新潟、伏木、敦賀(月に2回往復)、函館・室蘭(月に1回往復)、函館・岩内、増毛(1年に3往復。ただし小樽便が寄港する場合が多い)であった。
 このように16年中の函館を起点とする関係航路は三菱会社が圧倒的であり、共同運輸の経営航路は森・室蘭間の定期航路以外は不定期航路に就航するのみであった。上記の他社の汽船とある航路の大半は共同運輸のものと考えられる。
 共同運輸の函館支社は創業当初は、旧北海道運輸会社の運賃に準拠した。それは、貨物運賃、乗客運賃を問わずいずれも共同運輸のほうが三菱より低運賃であった。両社のシェアについては当初は不明であるが、共同運輸の運賃が低いことがただちに、集荷へとはむすびつかない。第1回の同社の営業報告をみると船舶不足ということもあり、函館関係の航海は未だ不充分であり、三菱の対抗勢力とはなっていなかった。こうした状況に対して16年に関する在函イギリス領事の報告は「三菱会社と共同運輸会社の競争にもかかわらず、沿岸交易の運賃は非常に高く、生産物の流通をさまたげている」と述べているが、これは共同運輸が未だ三菱に対して明確に脅威の対象となるほどの実績をあげていないことを無視したものといえる。
 しかし、こうした評価が一方ではありながらも、競合状態が徐々に形成されてゆくことが、函館の海運事情を良化させることにつながっていくのであった。特に昆布をはじめ、海産物の集散市場となる函館は集出荷の時期が集中するために、荷主階層は特にそうした時期において船腹不足に悩まされていたので、両社の競合的な就航のメリットは大きかったものと思われる。