命令書のなかでは政府命令の航路を維持すること、船舶の徴用、郵便物の逓送義務を負うこと、また船舶購入あるいは役員等の任命等政府の統制をうけ国策的な色彩が濃かったのである。また資本金に対して年8分の利益(いわゆる利子補給)が15年間保証された。この利子補給はその後定額制に改められた。三菱・共同運輸から継承した創立時の所有船舶は汽船58隻(6万8610総トン)、帆船11隻(4725総トン)であり、当時のわが国の総噸数の77パーセントを占めていた。しかしこれらの船舶は汽船では半数が10年以上経過した老朽船であった。このため新造汽船の購入を進める一方で24年までに帆船を一切処分した。新会社の経営陣は森岡が社長に4名の創立委員が理事に就任した。日本郵船は政府の独占打破という政策から新しい巨大な企業として生まれたわけであり皮肉な結果であったが、それはむしろ政府の軍事的な要請を反映していたし、また商品流通の発達にともなう輸送需要の拡大にも応えるものであった。
命令書により日本郵船は海外航路3線、国内航路は11線、計14線の航路を開くことを政府から指定された。海外航路は横浜・上海線、長崎・ウラジオストック線、長崎・仁川線でいずれも三菱の助成航路を継承したものであり、国内航路も三菱や共同運輸の経営した定期航路であった。国内航路のうち北海道と本州を結ぶ航路が3線、北海道内の航路は5線であった。
この命令航路に対して開業後は実情にあわせて一部変更され19年9月現在では18線の定期航路が運航されている。この時点での北海道に関係した航路の内容をみておこう(『日本郵船会社第一回報告』)。なお各航路に就航した主な船名(トン数は総トン)を「函館新聞」からひろってみた。図7-1は北海道関係航路であるが、個別でみるとまず本州と函館を結ぶ路線は次のとおりである。
図7-1 日本郵船・北海道関係航路(明治19年9月現在)
・神戸-函館線 汽船4艘により週2回往復。高砂丸(2121トン)、長門丸(1854トン)、新潟丸(1910トン)、東京丸(2193トン)。往復とも横浜と荻浜(宮城県)に寄港した。郵船は横浜・上海線に最も性能の優れた汽船を配したが、この航路はそれに次ぐ大型の汽船を配している。この路線は横浜で国際線の横浜・上海線および横浜・四日市線に接続した。
なお横浜・函館線がこの航路のなかに組み込まれて1週に1往復程度の臨時運航があった。ちなみに当初の命令航路は横浜-荻浜-函館線となっていた。この点については次に述べる。
・函館-青森線 汽船2艘により毎日1往復。壱岐丸(228トン)、貫効丸(298トン)。
・神戸-小樽線 品川丸(1338トン)や伊勢丸(1244トン)などの汽船4艘により週1往復。下関、境、敦賀、伏木、直江津、新潟、酒田、土崎、函館に寄港。時には寿都、江差に寄港した。この路線は神戸、函館の両港の各路線に接続した。この航路は命令書では小樽・境線であったものを神戸まで延長したわけであるが、三菱・共同時代にはこの航路はなく、従来の神戸・函館線と函館・小樽線とを一本化したものである。いずれにしても、この小樽発日本海経由の神戸便は後に小樽が地位上昇した要因のひとつとなっていった。
つぎに函館と道内各地との路線は
・函館-根室線 松前丸(604トン)汽船1艘を配置。航海回数は不定、この路線は浜中、厚岸、釧路に寄港する場合もあった。
・函館-小樽線 田子浦丸(746トン)汽船1艘配置。4日ごとに両港を発船。
そして道内諸港間における路線として
・森-室蘭線 汽船1艘により毎日1往復。
・小樽-宗谷線 汽船1艘配置。航海数は不定。ただし冬期間は欠航。
・根室-離島線 汽船1艘配置。根室と国後、択捉、北見地方。航海数は不定。ただし冬期間は欠航。
これらの航路は青函航路のように定期・定日航路と、航路を開くがその就航日は不定であるという不定期航路からなっていた。またこの定期、不定期航路とは別に函館から北海道各地、あるいは本州各地(特に横浜行きが多い)間、あるいは函館・上海便等の臨時航路がその時々の需要により運航された。ちなみに29年の『函館商工業調査報告』では日本郵船の航路を定期航海、定航海、臨時航海の3種類としているのは、以上のように航路の内容が種々あったことを示すものである。同年における定期航海は青森・函館・室蘭線と神戸・函館・小樽(東回り)線の2本で、前者は毎日1往復、後者は積荷の有無にかかわらず、3日ごとに1便という内容であった。一方定航海は函館・根室線と神戸・函館・小樽(西回り)線の2本で、前者は貨物の多寡により出帆日を定めずに就航し、後者はだいたい月2回でその期日は不定であった。つまり定期航海とは出帆日が定日であるもの、定航海は月単位の航海数が大体決まっているもの、それに貨物の状況で就航する臨時便の3種類であった。