19年2月に荻野喜兵衛らの市中商人9名の連名で次のような申請書が提出された。
渡島組設立願 私共義当道諸貨物運搬及ビ行旅ヲ通ジ専ラ衆庶ノ便ヲ計ルヲ目的トシテ有志輩協議ヲ遂ゲ資本金二万五千円ヲ以汽船渡島丸ヲ構造シ則明治十八年五月以降回漕ニ従事罷在候処尚資本金ヲ増加シ漸次汽船ヲ構造又ハ購入致シ一層盛大ニ回漕ノ業ヲ相営ミ度茲ニ一ツノ組合ヲ起創シ之ヲ渡島組ト称号シ今般函館区末広町百十五番地ニ於テ本店ヲ設ケ開業仕度候間何卒此段御允許被成下度奉願候也 明治十九年二月十五日 渡島組発起人 大町四十四 荻野喜兵衛 印 (以下八名 略) 元函館県令 時任殿 元函館県大書記官 堀金峰殿 (明治十九年「取裁録」道文蔵) |
この申請書によれば発起者は従来、汽船渡島丸を購入して回漕業を営んでいたが、有志結社のもと資本金を2万5000円と定め、本格的な海運企業を始めるといった内容のものであった。結社名を渡島組としたのも渡島丸にちなんだものであろう。この申請はただちに許可されて末広町の村山紋太郎の店舗に本店を置き開業した。発起人の顔ぶれは荻野喜兵衛、飯田重助(雑貨荒物商)、坂口治兵衛(水産商)、本庄丑吉(物産商)、村山紋太郎、笹野栄吉、滋賀県出身で東浜町辻嘉吉方寄留の中村庄兵衛、小林吟次郎(東京)、大島重太郎(新潟)の9名であり、村山、笹野、中村は何れも寄留であるが、函館を本拠として活躍しているいわば中堅級の商人であり、彼らは雑貨荒物商や漁網商など様々な商人で構成されている。
ところで願書には18年5月以降渡島丸で回漕業を始めたとあるが、実はこの渡島丸は東京で18年4月に建造された121総トン(75登簿トン)、18馬力の汽船であり発起人の1人中村庄兵衛が同年6月に購入したものであった。この当時中村庄兵衛は東浜町に寄留(後に地蔵町に居住し、醸造業経営)し、渡島丸を購入した6月に函館の荷主等を招待して運転式をするなどしている。そして購入当時は新潟方面への航海にあて、8月以降は昆布や鮭の収獲が始まる三場所や釧路方面に向けるという報道がなされている(18年6月7日「函新」、明治20年『船名録』)。同じ年では横浜への就航が確認できる。
こうしたことから分かるように、まず渡島丸の船主である中村庄兵衛が18年の6月(願書では5月とはなっているが)試験的に同船による回漕業務を始め、翌19年1月に賛同者を得て資本金を決め、9名の発起人がそろったところで結社組織の海運会社を営業するという出願の運びとなったのである。ただし20年時点では資本金未定(『函館区役所統計概表』)とあるので、株金払込がまだ完了していなかったようである。21年3月に東京から汽船北海道丸(400トン)を購入して2艘体制にした。この船は700~800人乗りで函館回着後、早速神戸便の航行を始めている。
当初の営業所在地は末広町の村山紋太郎の店舗を兼用した。明治21年の「函館新聞」の出帆広告では新潟便、八戸宮古経由浜中・厚岸便、神戸便などがある。これらはいずれも不定期便であるが貨物運送の比重が高く積み荷の関係による航海と考えられる。
創業時の役員構成は分からないが21年では村山紋太郎が頭取、中村庄兵衛と忠谷久藏が取締であり、株主は7名であった。ここで注目すべきことは当初発起人に加わっていない忠谷が取締として加わっていることである。実は当初の発起人の荻野喜兵衛は石川の北前船主である忠谷久蔵の大町にある函館支店の惣理(18年11月11日「函新」)、つまり支配人であった。したがって実質は忠谷に代行して発起人に名を連ねているにすぎない。忠谷は石川県橋立に生まれ家業は代々回船業であった。忠谷自身も和船久保丸などを所有し北前船経営を続け明治4年には函館に支店を設け荒物・海産商を営んでいた。6年には西洋帆船を大阪で建造し、また根室や奥尻、十勝の大津などで漁業経営に従事した人物である(『北海道立志編』)。忠谷は他の北前船主と同じく函館に本籍を移す事はなかったが、実質的には函館に土着して活動した商人であった。渡島組が次に述べるように改組して新たな海運会社として飛躍する背景には北前船主として活躍したこの忠谷の参加によるところが大きかった。
また笹野も忠谷と同じく石川県人であり家業は代々漁業と海運業を兼営していた。笹野も家業を引き継いだが、明治10年代半ばに来函し船具会社の発起人の1人となったり、また18年からは樺太漁業に着手している。笹野がこの渡島組にかかわりをもったのは樺太漁業経営を始めたことと何らかの関連があると考えられる。後に同社の社長となっている。