明治維新政府が不換紙幣の増発によって発生したインフレーションに手を焼いて、いかに克服するかが問題となっていた。その時アメリカに金融制度の調査に赴いていた伊藤博文が、南北戦争(1861年)後のインフレーションの処理と公債の価格維持に、1863(文久3)年2月25日制定によるナショナルバンク(国立銀行 National Bank)方式が成功しているのを見て、この制度を輸入しようとした。銀行名について少し付け加えて説明すると、国立銀行という訳名は渋沢栄一が名付親で、私立に対する言葉と誤解される恐れがあるため、国法銀行と訳すのが適当ではなかったといわれている。さてこれにたいしてイギリスに赴いた吉田清成が、イングランド銀行のような中央銀行方式を持ち出して反対した(加藤俊彦・大内力編著『国立銀行の研究』、後藤新一『日本金融制度発達史』)。
そこで明治4年11月の参議大隈重信、大蔵大輔井上馨および同少輔伊藤博文が協議のうえ次のように決定した。
1、国立銀行論者(伊藤)は紙幣兌換主義を捨て、正貨兌換の方式とする。
2、金券論者(吉田)は公債証書を抵当として銀行紙幣を発行することに反対しない。これは、不換紙幣を回収整理するためである(明石照男・鈴木憲久共著『日本金融史』第1巻 明治編)。
銀行紙幣の仕組みは、国立銀行は資本金の6割にあたる金額の政府紙幣を政府に納め、政府から同額の金札引換公債証書の下付をうけ、この公債証書を抵当として同額の銀行紙幣を発行する特権を与えられた(前掲『日本金融制度発達史』)。
国立銀行条例が明治5年11月15日太政官布告第349号をもって公布され、4銀行(第一、第二、第四、第五)が設立開業した。しかし、国立銀行紙幣は正貨兌換が義務づけられていたので、輸入超過の貿易状況下で正貨が海外に流出し、政府紙幣は価格が下り、銀行紙幣を発行すれば取付にあった。国立銀行の設立によって正貨兌換の銀行紙幣を不換紙幣に代わって流通させようとして、結果的には政府の計画は失敗した。
政府は明治9年の華士族の金禄公債発行を利用し、抵当として銀行紙幣を発行させることを考え、明治9年8月1日に「改正国立銀行条例」を公布して、正貨兌換をとりやめ、銀行紙幣発行の限度を拡大した。そこで兌換制度の確立政策は後退したが、国立銀行が数多く設立され、不換銀行券であっても、多額の通貨を供給して殖産興業資金をつくりだそうとする政策が前面に出てきた。とくに金禄公債出資の有利性によって、この方式による国立銀行の設立ブームが起こり、結果として合計153行に及んだ。もちろんこの数字の中に、函館第百十三銀行と函館第百四十九国立銀行が含まれる。なお、国立銀行に番号と地名をつけているのは、銀行の数が増加するに従って、事務取扱のうえで無用の混乱を避けるためということである(『銀行便覧』、前掲『日本金融制度発達史』)。
では函館に銀行設立の動きがみられたのは、いつごろからであろうか。『初代渡辺孝平伝』(孝平とは初代熊四郎の隠居名)によると、「百十三国立銀行創業の事 偖て明治八年頃より銀行の必要の時と成りし故、有志者に図りし処賛成者少く未だ其運びに至らず、…」とあるように、明治9年8月の国立銀行条例の改正前に地元で話し合いがあったようであるが、意見は一致しなかった。
条例改正後には、政府が国立銀行を設置するよう、その主旨を述べて全国に勧誘しているのは次の開拓使の禀議によって明らかである。すなわち「函館へ銀行創立慫慂方禀議 銀行創立之主意ハ貸借ノ間ニ在テ互ニ紹介トナリ貨幣ノ流通ヲ便利ニシ常ニ循環流動スルニアレハ資本ノ多寡ト商業ノ旺衰等ニ因リ営業上ノ目的トスヘキモノニシテ既ニ大蔵卿ヨリ府県ヘ達…」(明治11年「禀議録」道文蔵)とあって、それを受けて開拓使は、慎重に対処して誘導しようとしている。というのは、資本金をどの程度にするかが関係者の意見一致のキーポイントになるからである。さきの禀議は次のようにその見通しを述べている。
「……函館ノ如キハ全道ノ咽喉殊ニ開港場ナルヲ以テ漸次商業繁盛ヲ成シ且該地方ニハ豪商モ不少旁弐拾万円已内ノ目途ヲ以テ支庁ヨリ程能ク勧奨銀行設立為致東京、大坂其他便宜ノ場所ヘ支店ヲ設候様相成候ハヽ全道ノ流通ハ勿論物産製殖ノ途ニ於テハ著敷効験ヲ看ルニ可至ト存候尤必ス設立可致トノ意ヲ以官ヨリ厳命ヲ下シ候様ニテハ不都合ニ付其辺ハ支庁ニテ漸次誘導致候方可然トノ見込ニ候」と、目標金額を20万円以内において現場の函館支庁を通じてあくまで功を急がず、頭から強制的に話を進めることのないよう、十分に注意をはらっている。
ここに注目すべき事実として明治9年に、第一国立銀行が函館支店を設置する計画を地元有力者(村田駒吉など)に示して、資本金(100万円)の協力方を申入れている。この際の地元の対応の仕方が、開拓使の参考になっているようである。
この第一国立銀行の件については、村尾元長が「函館ヘ国立銀行ヲ設立スル儀上局御達ノ趣ニ依リ見聞ノ概略左ニ」(前掲「禀議録」)という、いわば調査結果による意見書のなかで「…何分巨大ノ金額ニテ目的不相立凡二拾万円位迄ハ可行届旨渋沢氏ヘ回答及ビ其後何等ノ再議モ無之旨伝聞致居候」と報告している。この公書の日付は明治11年1月17日であるから、禀議より4日前であり、資本金20万円は村尾の調査によったものと思われる。さらに村尾は「一現今函館商人中資力中等以上ノモノニテ地方ノ為メニ公益ヲ興シ候輩追々増加且ツ昨年九十月以降ハ右等ノ者共一層奮発ノ情況ニ有之夫是実際ニ就キ勘考致シ候ヘバ現今支庁ヨリ勧奨ノ次第ニ依テハ二拾万円以内ニ候ヘバ有志輩ノ者共必ズ周施シ資本ヲ募リ独立ノ銀行開設ノ場合ニ可立至ト存候。但函館支庁ヨリ銀行設立ノ儀ニ付従前市民ヘ勧奨等致シ候儀ハ不致承知候」と述べ、このような村尾の調査による見通しが、禀儀の基礎になったようだ。以上のように銀行設立勧奨への上からの動きが、慎重な下調査にもとづいて行われている。
杉浦嘉七 杉浦茂氏蔵
その後開拓使の意向が函館支庁を通じて、地元有力者側に伝られたようである。すなわち、「明治十一年弐月中、市中重立候族貸附会所ニ於テ銀行設立ノ儀ヲ官ヨリ誘導セラレ」とあるが、ついでそれらの人々が更に輪を広げて、「猶其人々ヨリ其他ノ人々ヲ誘導致セシ処、追々加入人モ多ク略拾万円ノ額ニ達セシユヘ、仮リニ取締役ヲ相定メ爾後ノ事務ヲ担当為致ベク事ニ相定メ候事。」と順調にことが運び、資本金もほぼ10万円に達した模様である(「第百十三国立銀行・銀行創立要件録」『函館市史』史料編第2巻)。
銀行設立に向けて、中心的役割を担った人々は、泉藤兵衛、村田駒吉、田中正右衛門、小林重吉、杉浦嘉七などであった。ただ官側の主導で始まったので、主なる発起人というものもいなかったが、主として村田、泉の両名が中心となって設立準備が進められ、田中、小林は出金高が多く、杉浦は最初から頭取に推挙が予定されていた。したがって、この5名が発起人といってもよいことになった。4月7日に銀行株主一同が町会所に集合し、取締役として投票で泉藤兵衛、村田駒吉、田中正右衛門、小林重吉、安浪治郎吉を選出した。ついで4月10日にはつぎのような創立願書を提出している。
国立銀行創立願書 今般私共結合シ、明治九年第百六号御布告ニ随ヒ、国立銀行条例ヲ遵奉シ、金高拾万円ヲ資本トシ、開(拓脱)使第十四大区四小区渡島国函館会所町拾六番地ニ於テ、国立銀行設立営業仕度、此段以書付奉願候也 明治十一年四月十日 発起人 泉藤兵衛 村田 駒吉 田中正右衛門代 脇坂 平吉 右願書名アテノ儀心得ザルヨリ無名当ニシテ当支庁へ差出シタリ (前掲「第百十三国立銀行・銀行創立要件録」) |
ところが、5月3日に町会所で集会が開かれることになったが、その目的は、渡辺、今井市右衛門の両氏が東京から帰函して、先に提出した創立願書の資本金額を増額することについて相談したいというのである。この件については東京の開拓使出張所で説論されたこともあり、区長と相談してこの日の集会を決定したということである。渡辺氏の報告は次のような内容であった。
渡辺氏曰ク、東京表ニテ開拓使出張所ヨリ招カレ、西村君ニ謁シ候処、同君ノ謂フ、今般函館ヨリ拾万円ノ銀行創立願書相廻リタリ。然ルニ其筋ニテ承ルノ処、各所ノ銀行モ已ニ政府ニテ予定ノ金額ニ至ラントスルノ由。故ニ今後再ビ増額等ノ願ヒモ相届カザル故、今創立ノ席ニ拾万円モ増加致シ、合セテ弐拾万ヲモ願出候ハバ、後日ノ為ニモ可相成、且各所ノ銀行ヨリ何レモ増加ノ義ヲ願出候得共、大蔵省ニテハ最早御聞届ニ相成ラザル由ニ付今願出ノ初弐拾万円乃至廿五万トモ致シ置キ、実地右金額ニ騰ラズ候ハバ其段集合ノ金額丈ニテ設立致シ候トモ苦シカルマジク、今日拾万円ト願出置後日政府予定ノ金額ニ達シ候節再ビ増加ノ義ヲ出願候トモ、其節ハ迚モ行届キマジク、依テ先般ノ願書ハ未ダ手元ニ留置キ候故、帰函ノ上ハ猶相談ノ上申立テヨトノ事ヲ西村君ヨリ申述ラレシ由ノ演説ナリ。右渡辺氏演説ノ大意。 (前掲「第百十三国立銀行・銀行創立要件録」) |
以上のように西村貞陽大書記官は、政府内の事情を説明して、便宜的な方法まで細かく指導している。ここで明治9年制定の国立銀行条例の法定最低資本金を明らかにしておくと、人口10万人以上の地では20万円、人口10万人未満の地では10万円、ただし、大蔵卿の詮議で5万円以上10万円未満の資本金でも許可(第17条)する。とすれば当時の函館の人口明治9年約2万7000人からいえば10万円が原則として適法額となるわけである。また渡辺演説のなかで、政府の予定の金額といわれているのは、政府のインフレの弊害をおそれて明治10年11月「国立銀行条例」を改正するよう禀議し、その資本金総額を4000万円と定めたことを指していると思われる。したがって、明治12年11月免許の京都第百五十三国立銀行の設立で制限金額に達したので、政府はその後設立免許を停止した(前掲「第百十三国立銀行・銀行創立要件録」、『日本金融制度発達史』、『函館区史』)。
この増資の問題は、官金取扱の要望とからみあっている。渡辺熊四郎と西村大書記官との交渉、その結論と地元商人の意見との間にはさまれて苦悩する渡辺の模様が、次のように述べられている。
開拓使大書記官西村君より銀行設立の話がありし故、是非有志者と図り設立致す様尽力いたすべけれども設立の上は開拓使の出納は其銀行に取扱方を命じ給はるやと談ぜし処、当時三井銀行にて取扱って居れども設立の上は地方の銀行故相委せる様致す故速かに設立成すべき様との事を命ぜられたり、尤も資本金は五十万円ならば宜しからんとの事故有志者と謀って其事を度々談じ漸く明治十年に設立の運になりたり、其後余は長崎に出張中其話が纒まりて開拓使に設立の願書を出せり、其事を長崎より帰へりに東京の開拓使出張所にて西村君に聞し処、其願書には資本金十万円にてありし故是にては不足なれば開拓使の出納を預ける儀にも成難きとの事故其設立の願書を大蔵省に出す事は暫く見合せ余が函館へ帰へりせめて三十万円の資本に致したならば先々願ひし開拓使の出納も此銀行に取扱ふ様に御取計ひを願度と云ふて帰れり。夫より銀行設立者の諸氏集め種々相談せし処何分纒まり兼ね漸く五万円を増して十五万円に定まりしが余は前に東京にて西村君に願ひしこと大きに不都合でありし故、此設立者は心中不満にてありし、其後十五万円にて許可になりて明治十一年に開業する様運びになりしが設立委員の考えと余の意とは相違して居れば取締役のことも言入れられしが不満の為めに断れり、 |
このように渡辺熊四郎は、あくまで開拓使の官金取扱を前提として西村貞陽と銀行設立を交渉したのである。したがって、前述した5月3日の集会では、渡辺がその辺を強調したにも拘らず反対されたようで、取締役を断っている。結局のところは、資本金を15万円と変更することで、5月3日付の願書を添願書付で再提出している。そして7月24日付で願が聞届けられ、第百十三国立銀行と名づけられた(前掲「第百十三国立銀行・銀行創立要件録」解題では23日認可)。
直第弐百廿三号 願ノ趣聞届候条創立証書、銀行定款可差出。尤名号ノ儀ハ第百十三国立銀行ト可相唱候事。 明治十一年七月廿四日 大蔵卿 大隈重信 大蔵卿印 |
この後、営業を開始してみて増資が必要となり、渡辺熊四郎の折衡で20万円までは成功している(同前、『初代渡辺孝平伝』)。
これまでのべてきたように銀行設立に努力してきた人々は商人が主で、地場商人主導型と規定してよいように思われる。